愉しむ漢詩

漢詩をあるテーマ、例えば、”お酒”で切って読んでいく。又は作るのに挑戦する。”愉しむ漢詩”を目指します。

閑話休題 154 飛蓬-61 小倉百人一首:(鎌倉右大臣) 世の中は

2020-07-10 09:16:30 | 漢詩を読む
(93番)世の中は 常にもがもな 渚(ナギサ)漕ぐ
      海女の小船(オブネ)の 綱手(ツナデ)かなしも
           鎌倉右大臣 『新勅撰和歌集』羇旅・525
<訳> 世の中の様子が、こんな風にいつまでも変わらずあってほしいものだ。波打ち際を漕いでゆく漁師の小舟が、舳先(へさき)にくくった綱で陸から引かれている、ごく普通の情景が切なくいとしい。(小倉山荘氏)

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京都対鎌倉、また鎌倉内での権力争いと心安からぬ日常にあって、波静かな渚で目にした、漁師たちが力を合わせて舟を曳く情景に、心打たれたのでしょう。いつまでもこのような安寧な時が続いて欲しいものである と。

作者・源実朝は、源頼朝が興した鎌倉幕府で第3代征夷大将軍となる。12歳で将軍に擁立され、28歳の若さで甥によって暗殺された。歌の才に恵まれ、明治時代・正岡子規は、柿本人麻呂、山部赤人に肩を並べる歌人であると絶賛しています。

為政の頂におりながら、民を思い遣り、やさしい眼差しを向けるお方であったようです。百人一首の中にあって異色な感がなくもない。民の安寧に注意する姿を念頭に翻訳を進めました。

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<漢詩原文および読み下し文> [上平声四支・十灰韻]
希求常世間安寧 世間の常なる安寧(アンネイ)を希求す
世間恒久願弥滋, 世間の恒久ならん願い弥(イヨ)いよ滋(シゲ)し,
瞻望大洋海灘隅。 瞻望(センボウ)す大洋 海灘(カイタン)の隅(クマ)。
把小漁船用縄曳, 小漁船を把(トッ)て縄を用(モッ)て曳く,
一何寧静動心哉。 一(イツ)に何ぞ寧静(ネイセイ) 心を動かす哉(カナ)。
 註]
  弥:ますます。     瞻望:遠くを見渡す。
灘:浅瀬、渚。     寧静:平穏無事なこと。

<現代語訳>
 世の中がいつまでも穏やかである事を願う
この世の中が今のまゝ、永遠に平穏であるようにとの願いが一層強くなる。
大海原を遥かに眺め見る渚の隈。
漁師の小舟を綱で引いていくのが見えて、
何と平穏無事な情景であろうか、心動かされずにはおかないことだ。

<簡体字およびピンイン>
希求常世间安宁 Xīqiú cháng shìjiān ānníng
世间恒久愿弥滋, Shìjiān héngjiǔ yuàn mí zī,
瞻望大洋海滩隅。 zhānwàng dàyáng hǎi tān yú.
把小渔船用绳曳, Bǎ xiǎo yúchuán yòng shéng yè,
一何宁静动心哉。 yī hé níngjìng dòngxīn zāi.
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鎌倉幕府の初代将軍源頼朝(1147~1199)が亡くなると、息子の頼家(1182~1204)が18歳で家督を継ぎ、第2代将軍となります。しかし若年でもあり、実権は母方の北条氏が執ることになります。

やがて頼家も病気がちとなり、次代を思案する。頼家は、息子一幡に家督を継ぐつもりでいた。しかし一幡は比企家の血を引く子供である。北条家にとっては認めがたく、血筋を守るため、頼家の弟・千幡(実朝)を立てる。

結局、戦さとなり北条氏の一方的な勝利に終わる。比企家は全滅、一幡も殺された。頼家は蟄居の身となるが、やがて不可解な死を遂げる。12歳の実朝が第3将軍に就きます。繊細な少年実朝にとって、“世の中”とは何たるか、胸に思うところは浅からぬものがあったに違いない。

頼朝も和歌の名手であったようで、『新古今和歌集』に入集されている。また慈円(閑話休題153参照)と贈答歌を交わすほどの実力であった と。実朝も父に刺激されて歌の道に入って行った。

実朝は、『新古今和歌集』の編者・藤原定家を歌の師と仰いで、鎌倉―京都間を手紙や歌を遣り取りして教わったようです。また定家は『近代秀歌』や『万葉集』を実朝に贈ったとの事である。

実朝の歌は、徐々に萬葉調の歌風に磨きが掛かっていったようである。明治時代の歌人・正岡子規は、「……実朝は固より善き歌作らんとてこれを作りしにもあらざるべく、ただ真心より詠み出たらんが、なかなかに善き歌とは相成り候ひしやらん。……」(『歌よみに与ふる書』)

時により 過ぐれば 民の嘆きなり
   八大龍王 雨やめさせたまへ(金槐和歌集 雑部)
  [恵の雨も降り過ぎれば人々の嘆きです 八大龍王よ 雨を止ませてくれ]

詞書に、「建歴元年(1211)の洪水の際、独り本尊に向かって祈念した」とある。若き将軍が民衆の苦しみを救おうと“真心から詠みだした歌”と言えようか。この梅雨期の中北部九州から四国・東海に及ぶ集中豪雨被害の報道に接するにつけ、実朝のこの歌が頭を過ぎり、同様に祈念し、早い復旧を祈る次第である。 

実朝は22歳の頃、自作の歌を編集し、『金槐和歌集』としてまとめています。700首を越す和歌が収められており、いずれの歌も若者らしい素朴さ、新鮮さをもつ秀作であるという。

頼家には、一幡のほかに善哉という子がいました。親がなく、痛々しい生活をしていたが、実朝は猶子(ユウシ)として手元に引き取り、親代わりとなり育てていた。将来僧侶として自立できるように と仏門に入り公暁(クギョウ)という法名を名乗っていた。

実朝は1218年右大臣に昇進し、翌年そのお礼に、鎌倉の鶴岡八幡宮に詣でた。帰路、大銀杏の陰に隠れていた公暁に襲撃され、28歳の若さで亡くなっている。百人一首では“鎌倉右大臣”と記されている。なお公暁は、悪知恵を吹き込まれたとする陰謀説がある。

実朝は、亡くなる当日、次の辞世の歌を残している。当時の“世の中”の状況から、心中、覚悟はしていたのでしょうか。

出て去(イ)なば 主なき宿と なりぬとも
   軒端の梅よ 春を忘るな(吾妻鏡)
  [私が立ち去って主人のいない家となっても 軒端の梅よ 春を忘れず咲いておくれ](小倉山荘氏)

コメント
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