(83番)世の中よ 道こそなけれ 思ひ入(イ)る
山の奥にも 鹿ぞ鳴くなる
皇太后宮大夫俊成 『千載集』雑・1148
<訳> この世の中には、悲しみや辛さを逃れる方法などないものだ。思いつめたあまりに分け入ったこの山の中にさえ、哀しげに鳴く鹿の声が聞こえてくる。 (小倉山荘氏)
oooooooooooooo
壮年の域に差し掛かる27歳、悲嘆にくれる状況にあったのでしょうか。世の中の苦を逃れて隠棲するつもりで山に入ったが、鹿の悲しい鳴き声が耳に入り、ハッと悟る所があった。山中でさえ安寧な世界ではないのだ と。
後に歌に新風を起こした藤原俊成である。藤原北家御子佐流・権中納言・藤原俊忠の子。10歳で父を亡くし、義兄・勧修寺流・藤原顕頼の猶子(ユウシ)となったが、後に実家の御子佐流に戻った。
後白河院の院宣を受け、第七勅撰集『千載和歌集』(1188完)の撰進に当たっている。上掲の歌は、同集に撰集されているが、その際、政治的な思惑から一悶着あったようである。漢詩には誤解される余地はないでしょう。
xxxxxxxxxxxxxx
<漢詩原文および読み下し文> [下平声十一尤韻]
放棄出家的念頭 出家の念頭(ネントウ)を放棄する
嗟嗟世上満憂愁, 嗟嗟(アア) 世上憂愁(ユウシュウ)満つ,
欲遁惟知無所由。 遁(ノガ)れんと欲(ホッ)するも惟(タ)だ由る所無きを知るのみ。
終為隠居山里赴, 終(ツイ)に隠居せんが為に山里(サンチュウ)に赴(オモム)くも,
驚訝聴到鹿呦呦。 驚訝(キョウガ)するは鹿の呦呦(ヨウヨウ)を聴く。
註]
念頭:考え、心づもり。 嗟嗟:あゝ、嘆息の声。
憂愁:心配事。 驚訝:意外に、不思議に。
呦呦:鹿が悲しげに鳴く声。
<現代語訳>
出家を断念する
ああ、世の中は何と心配事に満ちていることか、
それから逃れようとしても拠る術がない。
遂には山奥に隠棲しようと山に向かったが、
意外にも山奥でさえ牡鹿の悲しげに鳴く声が聞こえてきたのだ。
<簡体字およびピンイン>
放弃出家的念头 Fàngqì chūjiā de niàntou
嗟嗟世上满忧愁, Jiē jiē shìshàng mǎn yōuchóu,
欲遁惟知无所由。 yù dùn wéi zhī wú suǒ yóu.
终为隐居山里赴, Zhōng wèi yǐnjū shān li fù,
惊讶听到鹿呦呦。 jīngyà tīng dào lù yōuyōu.
xxxxxxxxxxxxxxxx
まず、『千載集』撰集の際の一悶着について。かつて中国では、天下の乱れは皇帝の不徳によって起こるとされていたようです。この歌が作られた時期は、やがて“保元の乱”が起こるという、乱世の頃であった。
歌の中の「道」が「政道」と受け取られて、“世の乱れは政治の乱れに依る”と誤解される危惧がある と、入集は一旦見送られたらしい。当時詠まれた多くの俊成の歌の内容も参照された結果でもあろう、誤解は解けたようである。
俊成については、先に(閑話休題152)、寂蓮法師の稿で一部触れました。ここでその生涯をザッと振り返ってみます。17歳の頃から本格的に歌の詠作をはじめ、藤原基俊の師事を得ている。
上掲の歌ができたころ、自らの不遇への悲嘆、出家への迷いなどを多くの歌に遺している。崇徳天皇の歌壇の一員となり、「久安百首」の詠進者14名に加えられるなどの知遇を得ており、歌人として世に認められているようである。
またその頃、美福門院加賀と再婚しています。加賀は、宮中の話題を独り占めするほどの美少女(15、6歳)であった と。賢くて芸事も器用にこなす、明るい女性であった由。後に定家の母御(1162)となるお方である。
御子佐流に復帰(1168)後、「住吉神社歌合」など社頭歌合の判者を務めています。ただ病を得て1176年(63歳)に出家、釈阿と称する。とは言え、出家後、病が癒えて、歌人としての活躍は衰えることはなかった。
1178年、摂政関白・九条兼実(慈円の同母兄)の知遇を得て、九条歌壇の師として迎えられます。また後白河院から新勅撰集編集の院宣(1183)があり、『千載和歌集』(第七勅撰集)を撰進している。名実共に歌壇の第一人者となったことを意味します。
1193・94年、左近衛大将・藤原(九条)良経の家において、『左大将家百首歌合』が催された。作者には主催者良経をはじめ、新風歌人の定家・家隆・慈円・寂蓮、旧派六条藤家の顕昭・経家らを含めた計12人。俊成は判者を務めます。
予め与えられた題で各人100首、計1200首を用意して600番の歌合とした。特に当代歌壇の二大門閥、御子佐家と六条藤家、新旧両派の歌の理念をめぐる議論は、それぞれの威信を掛けてなされ、激しいものであったようです。
この歌合せにおける判者・俊成の 歌を詳細に批評した判詞は、“幽”に通ずる余情や艶(エン)を重視したもので、優れた文学評論であり、後代への影響も大きいとされている。一方、顕昭は俊成の判を不服として、反駁を加え「六百番陳状」を著している。
寂蓮と顕昭の議論は特に激しく、顕昭は独鈷(ドクコ)という仏具を手にし、寂蓮は鎌首(カマクビ)のように首を曲げて論争した。そこで女房たちは二人の争いが始まるたびに「ほら、また、独鈷と鎌首よ」と囃したてたらしい。そこで後々、歌に関わる議論を「独鈷と鎌首の争い」と言われるようになった と。
以後なお、俊成は後鳥羽院の歌壇に加わり数々の歌合で判者を務めるなど、歌の世界における活躍は目を見張るものがある。1204年11月10日「春日社歌合」に参加して詠作した。同11月30日91歳で生涯を閉じている。
ところで、新歌風、俊成の“幽玄”の心は、筆者の理解を超えた概念ではある。世の参考書を紐解くと、“言外に余情を漂わせた、かすかで奥深い情趣美”で、のちの“わび”・“さび”につながる概念とある。
俊成の生きた時代は、保元の乱(1156)、平治の乱(1159)、治承・寿永の乱(1180~1185、源平の戦い)と穏やかならぬ世の中で、俊成はこの乱世を通して目にされたことになります。平氏一族は敗戦を喫し、遂には朝敵として都落ちすることになった。
平忠度(1144~1184)は俊成を歌の師と仰いでいた。時に利あらず、忠度も都を捨てて逃れるほかなかった。しかし忠度は秘かに引き返して、五条の俊成宅を訪ね、自ら選んだ歌百首余の巻物を俊成に預けて、「一首でよいから勅撰和歌集に載せてほしい」と告げて去った と。
俊成はその後ろ姿に涙したという。後に俊成は『千載和歌集』に忠度の歌(下記)を載せている。但し、“よみ人知らず”として。朝敵の名を記すことはできなかったのでしょう。俊成に関わる佳話の一つを挙げて、本稿の締めとしたい。
さざ波や 志賀の都は あれにしを
昔ながらの 山ざくらかな (千載集 春 よみ人しらず)
[さざ波の寄る滋賀(大津)の都はあれてしまったが 長等(ながら)の山の
桜は昔のままに咲いているよ](小倉山荘氏)。
山の奥にも 鹿ぞ鳴くなる
皇太后宮大夫俊成 『千載集』雑・1148
<訳> この世の中には、悲しみや辛さを逃れる方法などないものだ。思いつめたあまりに分け入ったこの山の中にさえ、哀しげに鳴く鹿の声が聞こえてくる。 (小倉山荘氏)
oooooooooooooo
壮年の域に差し掛かる27歳、悲嘆にくれる状況にあったのでしょうか。世の中の苦を逃れて隠棲するつもりで山に入ったが、鹿の悲しい鳴き声が耳に入り、ハッと悟る所があった。山中でさえ安寧な世界ではないのだ と。
後に歌に新風を起こした藤原俊成である。藤原北家御子佐流・権中納言・藤原俊忠の子。10歳で父を亡くし、義兄・勧修寺流・藤原顕頼の猶子(ユウシ)となったが、後に実家の御子佐流に戻った。
後白河院の院宣を受け、第七勅撰集『千載和歌集』(1188完)の撰進に当たっている。上掲の歌は、同集に撰集されているが、その際、政治的な思惑から一悶着あったようである。漢詩には誤解される余地はないでしょう。
xxxxxxxxxxxxxx
<漢詩原文および読み下し文> [下平声十一尤韻]
放棄出家的念頭 出家の念頭(ネントウ)を放棄する
嗟嗟世上満憂愁, 嗟嗟(アア) 世上憂愁(ユウシュウ)満つ,
欲遁惟知無所由。 遁(ノガ)れんと欲(ホッ)するも惟(タ)だ由る所無きを知るのみ。
終為隠居山里赴, 終(ツイ)に隠居せんが為に山里(サンチュウ)に赴(オモム)くも,
驚訝聴到鹿呦呦。 驚訝(キョウガ)するは鹿の呦呦(ヨウヨウ)を聴く。
註]
念頭:考え、心づもり。 嗟嗟:あゝ、嘆息の声。
憂愁:心配事。 驚訝:意外に、不思議に。
呦呦:鹿が悲しげに鳴く声。
<現代語訳>
出家を断念する
ああ、世の中は何と心配事に満ちていることか、
それから逃れようとしても拠る術がない。
遂には山奥に隠棲しようと山に向かったが、
意外にも山奥でさえ牡鹿の悲しげに鳴く声が聞こえてきたのだ。
<簡体字およびピンイン>
放弃出家的念头 Fàngqì chūjiā de niàntou
嗟嗟世上满忧愁, Jiē jiē shìshàng mǎn yōuchóu,
欲遁惟知无所由。 yù dùn wéi zhī wú suǒ yóu.
终为隐居山里赴, Zhōng wèi yǐnjū shān li fù,
惊讶听到鹿呦呦。 jīngyà tīng dào lù yōuyōu.
xxxxxxxxxxxxxxxx
まず、『千載集』撰集の際の一悶着について。かつて中国では、天下の乱れは皇帝の不徳によって起こるとされていたようです。この歌が作られた時期は、やがて“保元の乱”が起こるという、乱世の頃であった。
歌の中の「道」が「政道」と受け取られて、“世の乱れは政治の乱れに依る”と誤解される危惧がある と、入集は一旦見送られたらしい。当時詠まれた多くの俊成の歌の内容も参照された結果でもあろう、誤解は解けたようである。
俊成については、先に(閑話休題152)、寂蓮法師の稿で一部触れました。ここでその生涯をザッと振り返ってみます。17歳の頃から本格的に歌の詠作をはじめ、藤原基俊の師事を得ている。
上掲の歌ができたころ、自らの不遇への悲嘆、出家への迷いなどを多くの歌に遺している。崇徳天皇の歌壇の一員となり、「久安百首」の詠進者14名に加えられるなどの知遇を得ており、歌人として世に認められているようである。
またその頃、美福門院加賀と再婚しています。加賀は、宮中の話題を独り占めするほどの美少女(15、6歳)であった と。賢くて芸事も器用にこなす、明るい女性であった由。後に定家の母御(1162)となるお方である。
御子佐流に復帰(1168)後、「住吉神社歌合」など社頭歌合の判者を務めています。ただ病を得て1176年(63歳)に出家、釈阿と称する。とは言え、出家後、病が癒えて、歌人としての活躍は衰えることはなかった。
1178年、摂政関白・九条兼実(慈円の同母兄)の知遇を得て、九条歌壇の師として迎えられます。また後白河院から新勅撰集編集の院宣(1183)があり、『千載和歌集』(第七勅撰集)を撰進している。名実共に歌壇の第一人者となったことを意味します。
1193・94年、左近衛大将・藤原(九条)良経の家において、『左大将家百首歌合』が催された。作者には主催者良経をはじめ、新風歌人の定家・家隆・慈円・寂蓮、旧派六条藤家の顕昭・経家らを含めた計12人。俊成は判者を務めます。
予め与えられた題で各人100首、計1200首を用意して600番の歌合とした。特に当代歌壇の二大門閥、御子佐家と六条藤家、新旧両派の歌の理念をめぐる議論は、それぞれの威信を掛けてなされ、激しいものであったようです。
この歌合せにおける判者・俊成の 歌を詳細に批評した判詞は、“幽”に通ずる余情や艶(エン)を重視したもので、優れた文学評論であり、後代への影響も大きいとされている。一方、顕昭は俊成の判を不服として、反駁を加え「六百番陳状」を著している。
寂蓮と顕昭の議論は特に激しく、顕昭は独鈷(ドクコ)という仏具を手にし、寂蓮は鎌首(カマクビ)のように首を曲げて論争した。そこで女房たちは二人の争いが始まるたびに「ほら、また、独鈷と鎌首よ」と囃したてたらしい。そこで後々、歌に関わる議論を「独鈷と鎌首の争い」と言われるようになった と。
以後なお、俊成は後鳥羽院の歌壇に加わり数々の歌合で判者を務めるなど、歌の世界における活躍は目を見張るものがある。1204年11月10日「春日社歌合」に参加して詠作した。同11月30日91歳で生涯を閉じている。
ところで、新歌風、俊成の“幽玄”の心は、筆者の理解を超えた概念ではある。世の参考書を紐解くと、“言外に余情を漂わせた、かすかで奥深い情趣美”で、のちの“わび”・“さび”につながる概念とある。
俊成の生きた時代は、保元の乱(1156)、平治の乱(1159)、治承・寿永の乱(1180~1185、源平の戦い)と穏やかならぬ世の中で、俊成はこの乱世を通して目にされたことになります。平氏一族は敗戦を喫し、遂には朝敵として都落ちすることになった。
平忠度(1144~1184)は俊成を歌の師と仰いでいた。時に利あらず、忠度も都を捨てて逃れるほかなかった。しかし忠度は秘かに引き返して、五条の俊成宅を訪ね、自ら選んだ歌百首余の巻物を俊成に預けて、「一首でよいから勅撰和歌集に載せてほしい」と告げて去った と。
俊成はその後ろ姿に涙したという。後に俊成は『千載和歌集』に忠度の歌(下記)を載せている。但し、“よみ人知らず”として。朝敵の名を記すことはできなかったのでしょう。俊成に関わる佳話の一つを挙げて、本稿の締めとしたい。
さざ波や 志賀の都は あれにしを
昔ながらの 山ざくらかな (千載集 春 よみ人しらず)
[さざ波の寄る滋賀(大津)の都はあれてしまったが 長等(ながら)の山の
桜は昔のままに咲いているよ](小倉山荘氏)。