(97番) 来ぬ人を 松帆の浦の 夕凪に
焼くや藻塩の 身もこがれつつ
権中納言定家 『新勅撰集』巻13・恋3・849
<訳> いくら待っても来ない人を待つ私は、松帆の浦で夕凪の頃に焼かれて焦げる藻塩のように、切なさで身も焦がれる想いでいるのです。(板野博行)
oooooooooooooooo
淡路島・松帆の浦で焼かれる海藻にも似て、身を焦がすほどに待てども、待ち人は来らず。表面的には、作者(男性)が恋人を待つ身の歌ですが、海女乙女に成り代わって、切ない乙女の恋心を詠った歌のようです。1218年定家56歳の作。
実は、『万葉集』にある笠金村(カサノカネムラ)の歌:「……松帆の浦に 朝凪に 玉藻刈りつつ 夕凪に 藻塩焼きつつ 海女をとめ……」を基(本歌)とした「本歌取り」の歌である。この「本歌取り」は、定家が初めて編み出した歌の技法である と。
歌の「松帆の~藻塩の」部は、「こがれ」の序詞(ジョコトバ)、“松”は、“松帆”の“松”と“来ぬ人”を“待つ”、“こがれ”は、“焼け焦がれ”と“恋焦がれ”のそれぞれ掛詞、「本歌取り」、“松帆の浦”は歌枕 と技のオンパレードである。漢詩では、序詞は起・承句とし、掛詞も活かすように心がけました。
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<漢字原文および読み下し文> [去声四寘韻]
等意中人的来訪 意中の人の来訪を等(マツ)
海女制塩松帆浦, 海女(アマ) 塩を制(ツク)る 松帆(マツホ)の浦,
夕無風浪焼藻類。 夕べに風浪なく藻類を焼く。
恋人不来惟等待, 恋人来たらず 惟(タダ)等待(マ)つのみ,
有如海草転焦思。 海草の如(ゴトク)に 転(ウタタ) 思(ムネ)を焦(コ)がす有り。
註]
松帆浦:兵庫県淡路島北端の地名。
焼藻類:古い塩の製法。海藻に海水をかけ,干して乾かしたものを焼いて、水に
溶かし、さらに煮詰めて塩を精製する。この方法で作られた塩を藻塩
という。
等待:待つ。 転:ますます嵩じてくるさま。
焦思:胸をこがす。
<現代語訳>
意中の人の来訪を待つ
海女乙女は、松帆の浦で塩を造っていて、
風浪が収まった夕凪時には塩を含ませた海藻を焼く。
恋人は来ず、唯々待ちわびていて、
焼かれる海藻のように、ますます胸を焦がすのである。
<簡体字およびピンイン>
等意中人的来访 Děng yìzhōngrén de láifǎng
海女制盐松帆浦, Hǎinǚ zhì yán Sōngfān pǔ,
夕无风浪烧藻类。 xī wú fēnglàng shāo zǎolèi.
恋人不来惟等待, Liànrén bù lái wéi děngdài,
有如海草转焦思。 yǒurú hǎicǎo zhuǎn jiāo sì.
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作者・藤原定家(1162~1241)は、藤原俊成(閑話休題-155)の次男、寂蓮法師(同-152)の義弟である。二つの勅撰集:『新古今和歌集』(1205)および『新勅撰和歌集』(1235)の撰者で、当時の歌壇の中心的存在。また“小倉百人一首”の撰者でもあります。
定家は、若いころ肉体的に虚弱、神経質で感情に激する傾向があり、成人してからも呼吸器疾患と神経症に悩まされていたようです。病弱ゆえに感性の鋭さが備わって来たのでしょうか。
父親譲りの歌才に恵まれ、18歳に賀茂別雷神社の歌合に初めて参加している。20歳に『初学百首』を詠み、翌年父の命により、まとまった歌作として初めての作品『堀河院題百首』を作っている。
1186年(25歳)、西行法師の求めにより、伊勢神宮に奉納するために詠まれた100首の歌集『二見浦百首』ができている。先に挙げた(閑話休題1-151)“秋の夕暮れ”を詠った「三夕の歌」の一首:「見渡せば花も紅葉もなかりけり……」はこの歌集に収められた歌である。
同年九条兼実家の家司(ケイシ、家政を掌る職員)として出仕を始め、兼実の庇護を受けて順調に昇進、また歌人としても目覚ましい活躍を見せる。しかし1196年、内大臣・源通親による政変で兼実はじめ関係者は罷免されます。定家も連座して除籍処分を受けた可能性がある。
一方、後鳥羽天皇(在位1183~1198)は、退位し上皇となると和歌に対する興味が高まってきたようである。1200年、“院初度御百首”が企画された。定家は、六条家の策謀を受け、参加から除外されていたが、父・俊成や周囲の人々の運動により参加が許される。
翌年催された“千五百番歌合”にも参加して詠進する機会があり、定家の歌は、後鳥羽上皇の好みに合ったようで、以後上皇から取り立てられていく。定家は、源通具らとともに勅撰和歌集の編纂の院宣を受け、1204年『新古今和歌集』として上申、翌年完成している。
承久の乱(1221)後、後鳥羽院は隠岐に配流されるが、定家との歌の交流は続いていたようである。1232年後堀河天皇から『新勅撰和歌集』編纂の下命を受けて、単独で撰出を開始、1235に完成している。
同年、宇都宮頼綱から嵯峨野に建てた別荘(小倉山荘)の障子色紙に古来の歌人和歌を揮毫してほしいとの要望を受ける。その折100人の歌人の和歌を一首づつ選んだ。それに一部修正が加えられ、今日の『百人一首』となる。1241年、薨去、享年80歳。
定家の歌については、当時「ヘンな歌を読む異端児」という評価が専らであったようである。後鳥羽院歌壇に加わり詠進するにつれ、若き後鳥羽院の琴線にも触れる所があったことが、一般に“新風の歌”として世の中に認識させる契機となったようである。
定家について、後鳥羽院は、「才能は生得のもので、人のまねできるものではない」と最上級の評価をしている。半面厳しい評価もされているようだ。次の歌は、ある寺院の絵屏風の為の歌であるが、後鳥羽院は、採用してなかった と。
秋とだに 吹きあへぬ風に 色かはる
いくたの森の 露のした草(続後撰集 秋)
秋だとわかるほどには吹かない風をうけても 色が変わっていくよ 露をたたえた生田の杜の木陰の草たちは
後鳥羽院は、「言葉の使い方が巧みで艶(エン)なる仕上がりになってはいるものの、心の深さや情景の魅力はそれほどでもない」との趣旨の評をされた由。今回話題の歌「来ぬ人を……」についても、似たようなことが言えるのでは?と、筆者は愚考するのであるが、如何でしょうか。
定家の歌は、古来、時代によって毀誉さまざまな評価がなされているようである。定家に対する先人たちの評価は、総じて、「巧緻・難解、唯美主義的・夢幻的で、まさに“新古今調”の代表的な歌人」である と。
焼くや藻塩の 身もこがれつつ
権中納言定家 『新勅撰集』巻13・恋3・849
<訳> いくら待っても来ない人を待つ私は、松帆の浦で夕凪の頃に焼かれて焦げる藻塩のように、切なさで身も焦がれる想いでいるのです。(板野博行)
oooooooooooooooo
淡路島・松帆の浦で焼かれる海藻にも似て、身を焦がすほどに待てども、待ち人は来らず。表面的には、作者(男性)が恋人を待つ身の歌ですが、海女乙女に成り代わって、切ない乙女の恋心を詠った歌のようです。1218年定家56歳の作。
実は、『万葉集』にある笠金村(カサノカネムラ)の歌:「……松帆の浦に 朝凪に 玉藻刈りつつ 夕凪に 藻塩焼きつつ 海女をとめ……」を基(本歌)とした「本歌取り」の歌である。この「本歌取り」は、定家が初めて編み出した歌の技法である と。
歌の「松帆の~藻塩の」部は、「こがれ」の序詞(ジョコトバ)、“松”は、“松帆”の“松”と“来ぬ人”を“待つ”、“こがれ”は、“焼け焦がれ”と“恋焦がれ”のそれぞれ掛詞、「本歌取り」、“松帆の浦”は歌枕 と技のオンパレードである。漢詩では、序詞は起・承句とし、掛詞も活かすように心がけました。
xxxxxxxxxxxxxxxx
<漢字原文および読み下し文> [去声四寘韻]
等意中人的来訪 意中の人の来訪を等(マツ)
海女制塩松帆浦, 海女(アマ) 塩を制(ツク)る 松帆(マツホ)の浦,
夕無風浪焼藻類。 夕べに風浪なく藻類を焼く。
恋人不来惟等待, 恋人来たらず 惟(タダ)等待(マ)つのみ,
有如海草転焦思。 海草の如(ゴトク)に 転(ウタタ) 思(ムネ)を焦(コ)がす有り。
註]
松帆浦:兵庫県淡路島北端の地名。
焼藻類:古い塩の製法。海藻に海水をかけ,干して乾かしたものを焼いて、水に
溶かし、さらに煮詰めて塩を精製する。この方法で作られた塩を藻塩
という。
等待:待つ。 転:ますます嵩じてくるさま。
焦思:胸をこがす。
<現代語訳>
意中の人の来訪を待つ
海女乙女は、松帆の浦で塩を造っていて、
風浪が収まった夕凪時には塩を含ませた海藻を焼く。
恋人は来ず、唯々待ちわびていて、
焼かれる海藻のように、ますます胸を焦がすのである。
<簡体字およびピンイン>
等意中人的来访 Děng yìzhōngrén de láifǎng
海女制盐松帆浦, Hǎinǚ zhì yán Sōngfān pǔ,
夕无风浪烧藻类。 xī wú fēnglàng shāo zǎolèi.
恋人不来惟等待, Liànrén bù lái wéi děngdài,
有如海草转焦思。 yǒurú hǎicǎo zhuǎn jiāo sì.
xxxxxxxxxxxxxxxxx
作者・藤原定家(1162~1241)は、藤原俊成(閑話休題-155)の次男、寂蓮法師(同-152)の義弟である。二つの勅撰集:『新古今和歌集』(1205)および『新勅撰和歌集』(1235)の撰者で、当時の歌壇の中心的存在。また“小倉百人一首”の撰者でもあります。
定家は、若いころ肉体的に虚弱、神経質で感情に激する傾向があり、成人してからも呼吸器疾患と神経症に悩まされていたようです。病弱ゆえに感性の鋭さが備わって来たのでしょうか。
父親譲りの歌才に恵まれ、18歳に賀茂別雷神社の歌合に初めて参加している。20歳に『初学百首』を詠み、翌年父の命により、まとまった歌作として初めての作品『堀河院題百首』を作っている。
1186年(25歳)、西行法師の求めにより、伊勢神宮に奉納するために詠まれた100首の歌集『二見浦百首』ができている。先に挙げた(閑話休題1-151)“秋の夕暮れ”を詠った「三夕の歌」の一首:「見渡せば花も紅葉もなかりけり……」はこの歌集に収められた歌である。
同年九条兼実家の家司(ケイシ、家政を掌る職員)として出仕を始め、兼実の庇護を受けて順調に昇進、また歌人としても目覚ましい活躍を見せる。しかし1196年、内大臣・源通親による政変で兼実はじめ関係者は罷免されます。定家も連座して除籍処分を受けた可能性がある。
一方、後鳥羽天皇(在位1183~1198)は、退位し上皇となると和歌に対する興味が高まってきたようである。1200年、“院初度御百首”が企画された。定家は、六条家の策謀を受け、参加から除外されていたが、父・俊成や周囲の人々の運動により参加が許される。
翌年催された“千五百番歌合”にも参加して詠進する機会があり、定家の歌は、後鳥羽上皇の好みに合ったようで、以後上皇から取り立てられていく。定家は、源通具らとともに勅撰和歌集の編纂の院宣を受け、1204年『新古今和歌集』として上申、翌年完成している。
承久の乱(1221)後、後鳥羽院は隠岐に配流されるが、定家との歌の交流は続いていたようである。1232年後堀河天皇から『新勅撰和歌集』編纂の下命を受けて、単独で撰出を開始、1235に完成している。
同年、宇都宮頼綱から嵯峨野に建てた別荘(小倉山荘)の障子色紙に古来の歌人和歌を揮毫してほしいとの要望を受ける。その折100人の歌人の和歌を一首づつ選んだ。それに一部修正が加えられ、今日の『百人一首』となる。1241年、薨去、享年80歳。
定家の歌については、当時「ヘンな歌を読む異端児」という評価が専らであったようである。後鳥羽院歌壇に加わり詠進するにつれ、若き後鳥羽院の琴線にも触れる所があったことが、一般に“新風の歌”として世の中に認識させる契機となったようである。
定家について、後鳥羽院は、「才能は生得のもので、人のまねできるものではない」と最上級の評価をしている。半面厳しい評価もされているようだ。次の歌は、ある寺院の絵屏風の為の歌であるが、後鳥羽院は、採用してなかった と。
秋とだに 吹きあへぬ風に 色かはる
いくたの森の 露のした草(続後撰集 秋)
秋だとわかるほどには吹かない風をうけても 色が変わっていくよ 露をたたえた生田の杜の木陰の草たちは
後鳥羽院は、「言葉の使い方が巧みで艶(エン)なる仕上がりになってはいるものの、心の深さや情景の魅力はそれほどでもない」との趣旨の評をされた由。今回話題の歌「来ぬ人を……」についても、似たようなことが言えるのでは?と、筆者は愚考するのであるが、如何でしょうか。
定家の歌は、古来、時代によって毀誉さまざまな評価がなされているようである。定家に対する先人たちの評価は、総じて、「巧緻・難解、唯美主義的・夢幻的で、まさに“新古今調”の代表的な歌人」である と。