若い頃の宋代の詩人・蘇軾(1037~1101)の詩《驪山三絶》に次韻した詩《京都嵐山三绝》の詩作に挑戦しています。名勝地・京都嵐山の気に入ったスポットに焦点を当てて、漢詩として表現してみたいと心積もりしております。
先に、嵐山の名称に拘って、名にそぐわず、静寂な山中であることに触れました(閑話休題257)。今回、比較的人通りの多い場所でありながら心の休まる“竹林の小径”(写真参照)を主題にしました。
京都嵐山 竹林の小径
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次韻 蘇軾《驪山三絕 其二》 [上平声十灰韻]
京都嵐山三绝 其二 竹林(チクリン)径(コミチ)
凍結厳寒猶不灰、 凍結の厳寒 猶(ナ)お灰(オトロエ)ず、
直而青青一清哉。 直(チョク)にして青青(セイセイ)たり 一(イツ)に清き哉(カナ)。
令人感穏竹林徑, 人を令(シ)て穏(オダヤカ)な感にさせる竹林の径(コミチ),
香気告春竹筍胎。 香気 春を告(ツ)げる竹筍(タケノコ)の胎(タイ)。
註] 〇竹林径:京都嵐山の名所の一つ、小径の両脇の竹林がまるで緑のトンネルの
ようで、心休まる散歩径である; 〇灰:衰える; 〇直而青青:竹は、曲がらず
まっすぐに伸びる性質をもち、また厳寒の冬にも葉を落とさず青々としていること
から“四君子”の一つとして称えられている; 〇胎:新芽。
<現代語訳>
蘇軾《驪山三绝 其二》に次韻す
京都嵐山三絶 其二 竹林の小径
水が凍結する厳寒の中でも猶 意気が衰えることがない、
まっすぐに伸びて 青々と茂っており、なんと清らかなことか。
小径を行けば 竹間を抜けたそよ風が頬を撫ぜ、心休まる思いがする、
筍の芽がそっと顔を覗かせて 香気が漂い 春の訪れを告げる。
<簡体字およびピンイン>
次韵苏轼《骊山三绝 其二》 Cīyùn SūShì 《Lí shān sān jué qí èr” 》
京都岚山三絶 其二 竹林径 Jīngdū Lánshān sān jué qí èr Zhú lín jìng
冻结厳寒犹不灰、 Dòng jié yán hán yóu bù huī,
直而青青一清哉。 zhí ér qīng qīng yì qīng zāi.
令人感稳竹林径, Lìng rén gǎn wěn zhú lín jìng,
香气告春竹笋胎。 xiāng qì gào chūn zhúsǔn tāi.
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<蘇軾の詩>
驪山三絶句 其二 [上平声十灰韻]
幾変彫牆幾変灰、 幾びか彫牆に変じて幾たびか灰に変ずる、
挙烽指鹿事悠哉。 烽を挙げて 鹿を指す事 悠なる哉。
上皇不念前車戒、 上皇は前車の戒を念はず、
却怨驪山是禍胎。 却て怨む 驪山是れ禍胎と。
註] 〇彫:彫る、彩色を施してある; 〇烽:のろし; 〇上皇:皇帝の父、
天帝; 〇前車:前方を進む車、前の人と同じような失敗を後の人が繰り返す
こと、前轍を踏む; 〇禍胎:禍根。
<現代語訳>
驪山三絶句 其二
幾たび彩色を施した壁を築き また幾たび灰に変じたことであろう、
烽火を挙げ、鹿を追うこと まことに長閑(ノドカ)なことだ。
天帝は 前者の戒めを思わず、
却って驪山が禍根であると怨んでいる。
<簡体字およびピンイン>
骊山三绝 Líshān sān jué
几変雕墙几変灰、 Jǐ biàn diāo qiáng jǐ biàn huī.
挙烽指鹿事悠哉。 jǔ fēng zhǐ lù shì yōuzāi.
上皇不念前车戒。 Shànghuáng bù niàn qián chē jiè.
却怨骊山是祸胎。 què yuàn líshān shì huòtāi.
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中国故事成語に“胸有成竹”(胸中成竹あり)がある。宋代の文人画家“文与可(ブンヨカ/同)”の描画の模様を蘇軾が評した成句で、蘇軾の『文与可画篔簹谷(ウンタンダニ)偃竹记』中に見える。「竹の絵を描く時、文与可の胸の内には既に絵にする竹の完全な姿ができあがっている」との意で、「青写真があって初めて事は成る」の意で応用されている四字熟語である。
文与可は、竹の絵を水墨で描く「墨画/文人画」が得意であった。彼の画に魅せられた蘇軾は、彼の画中に、絵に題した詩を書き添える、または彼の画を手本にして自らも描いていた という。「文人画」は、唐代末に始まったようであるが、完成されたのは宋代で、その発展・完成に、文与可及び蘇軾の力が大きく関わったようである。
本来、君子とは、徳と学識、礼儀を備えた人を指し、文人はみな君子になることを目指していた と。草木のうち蘭、竹、菊及び梅の持つ特性が、君子の要件と似ることから、それら四草木は「四君子」と称され、「墨画/文人画」の素材として好まれた。
中でも、曲がることなくまっすぐに伸びて、寒い冬にも色あせることなく、青々とした葉を保つ竹(前掲写真参照)は、文人の理想とする“清廉潔白・節操”を具現する一つとして、好んで画題とされたようである。
京都嵐山の“竹林の小径”では、数m幅・約400m長の径の両側に竹林が繁り、径がやや湾曲しているため、はるか前方では径が消え、竹林のまっただ中に身を置いているような錯覚に襲われるのである。夏季には、竹林を抜けるそよ風に、命の洗濯を実感させられる。筆者一押しのスポットで、竹に纏わる諸々の事柄を思い出させる空間でもある。
蘇軾の「驪山三絶 其二」は、新進気鋭の若き官僚の気概を詠った詩と言えようか。春秋戦国時代から唐代に至る間、驪山界隈は、懲りることない幾多の戦乱に巻き込まれ、宮殿を含む諸建築物が建てられては灰に帰することが繰り返されてきた。
また西周王朝最後の幽王と笑わぬ愛妾・褒姒(ホウジ)の件、および秦の二世皇帝・胡亥に対する宦官・趙高(チョウコウ)の不忠などの世を狂わせる事件があったにも関わらず、唐代の玄宗皇帝は、それらの事件からなんら学ぶことがない と悲憤・慷慨の念を詠っています。「安史の乱」を招いた失政を指しているのでしょう。
蛇足ながら、詩・承句の“挙烽指鹿”については追加説明が要るであろう。“挙烽”について:褒姒の笑いを誘うため、幽王は、度々偽の烽火を挙げていた。実の敵の来襲に際し、「また偽か」と諸侯は参ずることなく、幽王は驪山で殺害され、西周は滅んだ(771BC) と。
“指鹿”について:四字熟語“指鹿為馬”(鹿を指して馬と為す)で語られる、司馬遷『史記』に拠る故事成語を指しています。実権を握った趙高は、群臣の自分に対する従順さを推し量るために、「馬を献上します」と言いつつ、鹿を胡亥に差し出した。胡亥の疑念に同調して「馬ではなく、鹿だ」と具申したまっとうな群臣はみな趙高に誅殺された と。