愉しむ漢詩

漢詩をあるテーマ、例えば、”お酒”で切って読んでいく。又は作るのに挑戦する。”愉しむ漢詩”を目指します。

閑話休題320 飛蓬-173   春雨の 露もまだひぬ  三代将軍 源実朝

2023-02-20 09:40:02 | 漢詩を読む

春雨は、特に草木の成長を促し、“好雨”として喜ばれる反面、人にとっては“花の鑑賞”に また小鳥にとっては“蜜を吸う”のに好ましからざる事象とも言えよう。鶯は雨後に梅の枝に止まり、羽をぬらしながら囀っています。雨が止んだことを喜んでいるのでしょう。

 

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 [詞書] 雨後鶯

春雨の 露もまだひぬ 梅が枝(エ)に 

  うは毛しをれて 鶯ぞ鳴く (金塊集 春・28) 

 (大意) 春雨に濡れて梅の枝は未だ乾いていない、上毛はしおれたままで、鶯が鳴いている。

 註] 〇露もまだひぬ:雨のしずくの露の玉になっているのが、まだかわいて

  いない; 〇うは毛:鳥・獣の毛や羽で表面にあるもの。  

xxxxxxxxxx

<漢詩> 

 孟春雨後情景   孟春 雨後の情景   [下平声一先-上平声十四寒韻 通韻]

春雨暗香伝, 春雨 暗香(アンコウ)伝う,

梅枝沾未乾。 梅枝 沾(ウルオイ)未(イマ)だ乾(カワ)かず。

露珠留在羽, 露(ツユ)の珠(タマ) 羽に留り,,

枝上鶯語闌。 枝上の鶯の語(ナキゴエ)闌(タケナワ)なり。

 註] ○孟春:初春; 〇露珠:露の玉; 〇闌:真っ最中、最も盛んな時。  

<現代語訳> 

  初春の雨後の情景 

春雨が止んだ後、何処からとも梅の香りが伝わってきた、

濡れた梅の枝はまだ乾いていない。

鶯の上毛には露の玉が載っており、

枝に止まった鶯の鳴き声が、今を盛りと聞こえてくる。

<簡体字およびピンイン> 

 孟春情景     Mèng chūn qíngjǐng 

春雨暗香 Chūn yǔ àn xiāng chuán,  

梅枝沾未干。 méi zhī zhān wèi gān.   

露珠留在羽, Lù zhū liú zài yǔ,  

枝上莺语阑 zhī shàng yīng yǔ lán

ooooooooo

 

実朝の歌は、次の寂蓮法師の歌の影響を受けた歌と言われています。法師の歌は、『百人一首』にも撰されており、その漢詩訳はすでに発表しました。

 

むらさめの 露もまだひぬ まきの葉に 霧立ち上る 秋の夕暮れ 

    (寂蓮法師 新古今集 秋下・491、百人一首 87番) 

 

歌人・源実朝の誕生 (14)

 

源光行は、実朝のため教材として『蒙求和歌』を用意しました。その中で、「李陵初詩」は、◎ 歴史上の人物・李陵の事跡、◎ 四字句の意味すること、および◎ 和歌作りへの発想の展開の面白さ等、特に興味を惹く例と思え、ここで李陵を巡る一稿を設けます。まず李陵の事跡から。

 

李陵(BCx?~BC74) は、前漢の全盛期、第7代皇帝・武帝(BC141~BC87)の頃活躍した人である。BC99年、騎都尉に任命され、先陣の弍師将軍李広利(?~BC88)の援軍として5千の兵を与えられ、対匈奴戦に出陣した。

 

李広利との合流前に、匈奴の単于に率いられた3万の騎兵軍と遭遇、奮戦したが、多勢に無勢、降伏・捕虜となる。李陵の才能と人柄を気に入った単于の強い勧めで、李陵は帰順、匈奴の右校王となり数々の武勲を立て、BC74年、匈奴で没した。

 

漢では武帝が激怒、李陵の妻子および一族を皆殺しするという事態となった。対匈奴戦の敗戦の責めに対し、司馬遷のみは、李陵の勇戦と無実を訴え、李陵を庇った。武帝は、李広利を誹るものだとして、司馬遷を投獄、宮刑に処した。司馬遷は、後に名著・『史記』を著したことは広く知られるところである。

 

話は変わって、李陵と共に、皇帝の待中を務めていた蘇武(BC140?~BC60)が、BC100年、中郎将として匈奴への使者に任命された。しかし匈奴の内紛に巻き込まれて、蘇武は捕らえられることになった。 

 

単于は匈奴への帰順を勧めたが、蘇武は頑として拒否。蘇武は穴倉に捨て置かれ、のちに北海(現バイカル湖)のほとりに移送された。北海の流刑地では、雄の羊とともに、草の実を食うなどの辛酸を舐めつゝ生き長らえた。「羊が乳を出したら帰してやる」と言われたという。

 

漢では、昭帝の世となり、匈奴と和親、蘇武らの救出の使者を度々匈奴に送っていた。その都度「蘇武はすでに死亡」と取り合ってくれなかった。抑留19年目、蘇武の従者が、「蘇武は生存」という情報を得て、蘇武救出の一計を案じた。

 

すなわち、使者は、「漢の天子が狩りで射止めた一羽の雁の足に帛(キヌ)がつけられていて、帛には“蘇武は大沢(ダイタク)の中にいる”と書いてあった、生存中だ」と主張。匈奴は折れて、蘇武は無事に帰還を許された と。“便り”を意味する“雁書”・“雁信”・“雁帛(ガンパク)”という用語の起こりである。

 

蘇武が都に帰ることを知った李陵は、蘇武に詩・「蘇武に与う三首」を贈った。その一首“其三”の出だし2句は次の通りである:[携手上河梁 (手に手を取って橋の上に立つ)、遊子暮何之 (旅行く君よ、日暮れて何処へ向かうか。) 

 

ここで大事なことは、「一句は“五言”からなる詩である」ということである。同詩は『文選』にも載せられており、その李周翰注に「五言の詩 陵より始まる」とある。すなわち、『蒙求』中の「李陵初詩」とは、「李陵は五言詩を初めて作った人」という李陵の事績を示す句である。

 

さて、本稿の締めに、「李陵初詩」を基に作られた『蒙求和歌』中の和歌の例を見てみましょう(実際は片仮名書きですが、漢字・平仮名表記で示す):

 

おなじ江に 群れいる鴨の あはれにも 帰る波路を 飛び遅れける 

 [解説] 一緒に川に群れていた鴨が かわいそうなことに、一羽だけ帰るとき

  に飛び遅れたのだなあ。  

 

先に見た「孫康映雪 車胤聚蛍」では、キーワードを活かした、比較的に判りやすい作歌の例でした。「李陵初詩」では、“人”が“鴨”に置きかわる発想の飛躍があり、作歌の幅が広げられている例と言えよう。 

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