(33番) ひさかたの 光のどけき 春の日に
しづこころなく 花の散るらむ
紀友則
<訳> 日の光がのどかにさすこの春の日に、どうして落ち着いた心もなく、桜の花は散ってしまうのだろうか。(板野博行)
oooooooooooooo
桜の花が舞い散るのを見て、柔らかい春の日和だというのに、どうしてこんなに散り急ぐのであろうか と。ひらひらと舞い散る花の情景も素晴らしい。でももっとゆっくりと楽しませてくれてもよいものを と惜しがっているようです。
作者の紀友則は、紀貫之のいとこに当たる人で、三十六歌仙の一人。『古今和歌集』の編纂に携わっていたが、完成を見ないで病没した。上の歌は、日本人の心情を見事に表現した秀歌とされています。
北の地域では、まだ花を楽しむことができるでしょうか。ただ、今年は全国的にコロナ禍に見舞われて世の安寧が損なわれ、花の心に想いを致す機会が失われたのでは と危惧しています。上の歌を五言絶句の漢詩にしてみました。和歌と併せて、ご鑑賞頂きたく。
xxxxxxxxxxxxxxxx
<漢字原文および読み下し文> [下平声七陽韻]
春日看落花有懐 春日 落花を看(ミ)て懐(オモイ)有り
晴朗麗春日, 晴朗にして麗(ウラ)らかなる春日(シュンジツ),
悠閑久方光。 悠閑(ユウカン)たる久方(ヒサカタ)の光。
軟風花飘散, 軟風(ナンフウ)に花 飄散(ヒョウサン゙)す,
怎落得連忙。 怎(ナニユエ)に落ちること連忙(レンボウ)なる。
註]
晴朗:空が晴れ渡ってのどかなさま。 悠閑:穏やかにゆったりしている。
久方:枕詞「ひさかたの」の当て字。 軟風:そよ風。
飘散:(風に)ひらひら散っている。 怎:どうして、何ゆえに。
連忙:急いで、すぐに。
<現代語訳>
春の日 桜花の散るのを見て懐う
空は晴れ渡り麗らかな春の日に、
穏やかに射す春の日の光。
そよ風に桜の花びらがひらひらと舞い散っている、
花は 何ゆえにこうも忙しげに散り行くのであろうか。
<簡体字およびピンイン>
春日看落花有怀 Chūnrì kàn luòhuā yǒu huái
晴朗丽春日, Qínglǎng lì chūnrì,
悠闲久方光。 yōuxián jiǔfāng guāng.
软风花飘散, Ruǎn fēng fēi piāosàn,
怎落得连忙。 zěn luòde liánmáng.
xxxxxxxxxxxxxx
今回の歌でも、枕詞(マクラコトバ)が出てきました。“ひさかたの”は、天、月、雲、光などに掛かる枕詞です。歌の意味を訳する上で特に意味を持つ語ではありませんが、和歌にとっては大事な要素と言えます。漢詩でも“当て字”を用いて敢えて表現しました。
作者・紀友則(?~905)は、平安時代前期に活躍した歌人で、菅原道真(845~903)と同時代の人である。菅原道真については、先にごく簡単に紹介しました(閑話休題137)が、補足を兼ねてここで再登場して頂きます。
菅原道真は学者の家系に生まれながら、文章博士、遂には右大臣にまで昇進します。その昇進および活躍ぶりが、周囲の妬みを買い、謀反を計画したとの讒言にあい、大宰府へ太宰員外帥として左遷され、2年後、失意のうちに没します。
以後、都では数々の天変地異に見舞われ、また要人たちが相次いで死没していきます。それらの異変は、菅原道真の怨霊によるのであろうとされ、世の中を恐怖の渦中に陥れた感さえあります。以後、菅原道真の霊を慰めようと、“神”として祀られることになりました。
菅原道真左遷の基となった讒言の主謀者は時の左大臣・藤原時平ではないかとされています。但しその真偽は不明であり、ここでは、同時代人・紀友則の境遇との対比を際立たせる意図もあって、一般論(?)として藤原時平を“悪者”として見ます。
一方、本稿の主人公・紀友則との関連でみると、藤原時平の異なった面が見られるように思われる。但し、この点も、明確な記録はなく、先人たちの推測の域に限られるようですが。
紀友則は、歌人としては高く評価されていたようですが、40歳過ぎまで無官で、不遇のようであった。その彼の才能を認め、取り立てたのは藤原時平ではなかったか と推測させる事柄が『後撰和歌集』に残る贈答歌―以下その要旨を示す―で読み取れるという。
偶々、友則が時平と会う機会があったようです。その折に時平は、友則の年齢が40過ぎである事を聞き驚き、「その歳になるまでどうして花も咲かず、実も結ばなかったのか」と問う歌を友則に贈った。
紀友則は、「人事異動が行われる春は、毎年違うことなくきているのに、自分のような花の咲かない木をなぜ植えたのか」と嘆きの歌を返したという。この遣り取りの後に、紀友則は、土佐掾、続いて大内記の職を得ているという。
内記とは、天皇の命令を伝える公文書などを書いたり、宮中の記録を作ったりするエリート職であり、後に紀貫之もこの役職に就いている。それらの事象の時系列から推して、紀友則が官職を得たのは時平の恩情・推薦によるのでは と推測される と。
勿論、歌の贈答を契機に、友則の才能を認めた故であることは論を俟つまい。就職という現実面から離れて、和歌の世界で周りを唸らせ、出世の切っ掛けとなったとする逸話もあります。
禁中で行われたある歌合せで、「初雁」という秋の題で和歌を競うことになった。その折の紀友則の歌は:
春霞 かすみて往(ユキ)にし 雁がねは 今ぞ鳴くなる 秋霧の上に
[春霞にかすんで飛んで去った雁が、今また鳴くのが聞こえる、秋霧の上に]
初句の“春霞”と聞いた時、周りの人たちは、季節が違う と大いに笑った。が第二句以下の展開を聞いて、黙り込んでしまった と。やはり、今回話題の歌と共に、一味違う歌であるように思われ、その優れた歌才には感服する次第である。
紀友則は、三十六歌仙の一人であり、『古今和歌集』の45首を含めて、『後撰和歌集』や『拾遺和歌集』などの勅撰和歌集に計64首収められている。また歌集に『友則集』がある と。
しづこころなく 花の散るらむ
紀友則
<訳> 日の光がのどかにさすこの春の日に、どうして落ち着いた心もなく、桜の花は散ってしまうのだろうか。(板野博行)
oooooooooooooo
桜の花が舞い散るのを見て、柔らかい春の日和だというのに、どうしてこんなに散り急ぐのであろうか と。ひらひらと舞い散る花の情景も素晴らしい。でももっとゆっくりと楽しませてくれてもよいものを と惜しがっているようです。
作者の紀友則は、紀貫之のいとこに当たる人で、三十六歌仙の一人。『古今和歌集』の編纂に携わっていたが、完成を見ないで病没した。上の歌は、日本人の心情を見事に表現した秀歌とされています。
北の地域では、まだ花を楽しむことができるでしょうか。ただ、今年は全国的にコロナ禍に見舞われて世の安寧が損なわれ、花の心に想いを致す機会が失われたのでは と危惧しています。上の歌を五言絶句の漢詩にしてみました。和歌と併せて、ご鑑賞頂きたく。
xxxxxxxxxxxxxxxx
<漢字原文および読み下し文> [下平声七陽韻]
春日看落花有懐 春日 落花を看(ミ)て懐(オモイ)有り
晴朗麗春日, 晴朗にして麗(ウラ)らかなる春日(シュンジツ),
悠閑久方光。 悠閑(ユウカン)たる久方(ヒサカタ)の光。
軟風花飘散, 軟風(ナンフウ)に花 飄散(ヒョウサン゙)す,
怎落得連忙。 怎(ナニユエ)に落ちること連忙(レンボウ)なる。
註]
晴朗:空が晴れ渡ってのどかなさま。 悠閑:穏やかにゆったりしている。
久方:枕詞「ひさかたの」の当て字。 軟風:そよ風。
飘散:(風に)ひらひら散っている。 怎:どうして、何ゆえに。
連忙:急いで、すぐに。
<現代語訳>
春の日 桜花の散るのを見て懐う
空は晴れ渡り麗らかな春の日に、
穏やかに射す春の日の光。
そよ風に桜の花びらがひらひらと舞い散っている、
花は 何ゆえにこうも忙しげに散り行くのであろうか。
<簡体字およびピンイン>
春日看落花有怀 Chūnrì kàn luòhuā yǒu huái
晴朗丽春日, Qínglǎng lì chūnrì,
悠闲久方光。 yōuxián jiǔfāng guāng.
软风花飘散, Ruǎn fēng fēi piāosàn,
怎落得连忙。 zěn luòde liánmáng.
xxxxxxxxxxxxxx
今回の歌でも、枕詞(マクラコトバ)が出てきました。“ひさかたの”は、天、月、雲、光などに掛かる枕詞です。歌の意味を訳する上で特に意味を持つ語ではありませんが、和歌にとっては大事な要素と言えます。漢詩でも“当て字”を用いて敢えて表現しました。
作者・紀友則(?~905)は、平安時代前期に活躍した歌人で、菅原道真(845~903)と同時代の人である。菅原道真については、先にごく簡単に紹介しました(閑話休題137)が、補足を兼ねてここで再登場して頂きます。
菅原道真は学者の家系に生まれながら、文章博士、遂には右大臣にまで昇進します。その昇進および活躍ぶりが、周囲の妬みを買い、謀反を計画したとの讒言にあい、大宰府へ太宰員外帥として左遷され、2年後、失意のうちに没します。
以後、都では数々の天変地異に見舞われ、また要人たちが相次いで死没していきます。それらの異変は、菅原道真の怨霊によるのであろうとされ、世の中を恐怖の渦中に陥れた感さえあります。以後、菅原道真の霊を慰めようと、“神”として祀られることになりました。
菅原道真左遷の基となった讒言の主謀者は時の左大臣・藤原時平ではないかとされています。但しその真偽は不明であり、ここでは、同時代人・紀友則の境遇との対比を際立たせる意図もあって、一般論(?)として藤原時平を“悪者”として見ます。
一方、本稿の主人公・紀友則との関連でみると、藤原時平の異なった面が見られるように思われる。但し、この点も、明確な記録はなく、先人たちの推測の域に限られるようですが。
紀友則は、歌人としては高く評価されていたようですが、40歳過ぎまで無官で、不遇のようであった。その彼の才能を認め、取り立てたのは藤原時平ではなかったか と推測させる事柄が『後撰和歌集』に残る贈答歌―以下その要旨を示す―で読み取れるという。
偶々、友則が時平と会う機会があったようです。その折に時平は、友則の年齢が40過ぎである事を聞き驚き、「その歳になるまでどうして花も咲かず、実も結ばなかったのか」と問う歌を友則に贈った。
紀友則は、「人事異動が行われる春は、毎年違うことなくきているのに、自分のような花の咲かない木をなぜ植えたのか」と嘆きの歌を返したという。この遣り取りの後に、紀友則は、土佐掾、続いて大内記の職を得ているという。
内記とは、天皇の命令を伝える公文書などを書いたり、宮中の記録を作ったりするエリート職であり、後に紀貫之もこの役職に就いている。それらの事象の時系列から推して、紀友則が官職を得たのは時平の恩情・推薦によるのでは と推測される と。
勿論、歌の贈答を契機に、友則の才能を認めた故であることは論を俟つまい。就職という現実面から離れて、和歌の世界で周りを唸らせ、出世の切っ掛けとなったとする逸話もあります。
禁中で行われたある歌合せで、「初雁」という秋の題で和歌を競うことになった。その折の紀友則の歌は:
春霞 かすみて往(ユキ)にし 雁がねは 今ぞ鳴くなる 秋霧の上に
[春霞にかすんで飛んで去った雁が、今また鳴くのが聞こえる、秋霧の上に]
初句の“春霞”と聞いた時、周りの人たちは、季節が違う と大いに笑った。が第二句以下の展開を聞いて、黙り込んでしまった と。やはり、今回話題の歌と共に、一味違う歌であるように思われ、その優れた歌才には感服する次第である。
紀友則は、三十六歌仙の一人であり、『古今和歌集』の45首を含めて、『後撰和歌集』や『拾遺和歌集』などの勅撰和歌集に計64首収められている。また歌集に『友則集』がある と。
※コメント投稿者のブログIDはブログ作成者のみに通知されます