韓流ドラマ『ホ・ジュン~伝説の心医~』の中に出てきた漢詩および関連した2,3の漢詩を取り上げ、ドラマ展開の中でそれらが挿入された意味について考えてみます。
『ホ・ジュン』は、ユネスコ世界記憶遺産の一つとして登録(2009)された医書『東医宝鑑』を著した現韓国の王朝時代に生きた医師ホ・ジュン(1539-1615)の物語です。このドラマは、韓国でも高い視聴率を記録したということですが、日本でも評判がよく一度ならず放映されたようです。
筆者が視聴したのは、2,3年前に、BS日テレ放送、キム・ジョヒュク主演の『ホ・ジュン』でしたが、リメイク版の由、やはり人気は衰えていないということでしょうか。
まず、『東医宝鑑』について少し触れておきます。
李王朝・宣祖(1552‐1608)の時代です。当然、環境や生活習慣、病理などに合わせた朝鮮独特の考え方や医療技法があったはずですが、当時、朝鮮国では従来の朝鮮医学は忘れられていて、もっぱらお隣明国の医術が広く応用されていたらしい。
しかし近隣との政治状況の変化で、明薬の輸入が困難になってきて、忘れ去られていた朝鮮独特の郷薬(いわゆる漢方薬)の復活が必須の状況となった。この機に合わせて、明医学を基礎にしながらも、従来の朝鮮医学を含めた医療体系の再構築の必要に迫られた。
そこで宣祖の王命(1596)により、内医院(ネイウオン)でホ・ジュンを中心に、新しい医学書の編集作業が始められた。しかし翌年(1597)、近隣諸国からの侵入が度重なり編集作業は中断された。ホ・ジュンは、疎開先に資料を持ち運び、自ら生涯を掛けた仕事として編集に取り組み、1610年に完成させています。
同書は、23編25巻からなる大著で、内科・外科系、薬剤、針灸など医療全般にわたり、実用性を重んじた内容となっている由。1613年に『東医宝鑑』の名で刊行され、朝鮮第一の医書として高い評価を得た。また中国・日本など漢字文化の国では、翻訳の必要がなく広く流布されたようです。
このような大著を成したホ・ジュンの偉大さには頭が下がる想いですが、驚かされることは、その出自が並みではなく、想像を絶する苦難を乗り越えなければならなかったことです。まさにドラマの主題となる所以です。
当時、かの地では絶対身分制度の下にあって、両班(ヤンバン、貴族)と呼ばれる特権階級があった。下層の人々に対しては、‘切り捨てごめん’の絶対権力がのしかかり、また身分差間の結婚は認められず、結婚が明るみに出れば、両者ともに罰せられるという具合であったようです。
ホ・ジュンは、父親が武官、龍川地方の長官で、の母親との間に生まれた庶子です。子供の頃から才気渙発の気質があり、武芸を修め、また本邦の寺小屋風の塾での学業成績もよく、父親も目を掛けている所があった。
しかし、の子であるがゆえに、嫡男の義兄やその仲間たちばかりでなく、周りの人々からも虐められて育つ。並みの身分でないことをいろいろな体験を通して知らされるに及び、青年期には、密貿易の首領格となり、自堕落な生活を送るようになる。
終には、密貿易が発覚し逮捕されて、長官である父親に罪の類が及ぶことになった。父親は、昔の仲間が山陰(サヌム)にいるから と紹介状を認め、「身分を言い訳にして人生を無駄にするな!」と諭して、ジュンを龍川から山陰に逃してやります。
山陰では、父親から頼れと言われた人はすでに此の地から去っていて、路頭に迷うことになる。しかし幾多の挫折を味わいながらも乗り越えていき、‘心医’の名声が高い医師ユ・ウイテの医院で仕事を得て、医術を修めたいと心に決める。
同医院での仕事は、薬を調製するための水を汲んでくる‘水汲み’です。天秤棒の両側に水桶をぶら下げて、肩に掛け、山奥の泉から水を運んでくる。仕事初めに運んできた水は、「使い物にならん!」と、ユ・ウイテ医師に怒鳴られ、水を頭からぶっかけられる。
薬の調製に適した水の泉をさる人に教わり、以後は立派に役目を果たしていく。その勤めぶりは、ユ・ウイテの目に止まったようです。ユ・ウイテの息子ドジが、内医院の医師になるべく、科挙の受験のためハニヤン(今のソウル)へ旅立つに当たって、彼の身の周りの面倒を見るようにと、ジュンは、ユ・ウイテから大事な役目を仰せつかったのです。
旅の途上、宿場で起きた出来事が、今回取り上げた漢詩・杜甫作『客至る』に関係します。その宿場でのやりとりが、当時の時代状況や漢詩の内容についてすべてを語っていますので、その出来事を紹介することにします。なおご参考までに、末尾にその漢詩と読み下しおよび現代訳を挙げました。
宿場では、泊まり客が多く、どこも満室状態でした。ドジとジュンは、藁葺宿屋の3, 4畳ほどの小さな部屋で、他の見知らぬお客さん2人と相部屋を余儀なくされます。ドジが医術関連の科挙(雑科*1)の受験者であるのに対して、相部屋の2人は両班で、高級官僚を目指す上位の科挙の受験者のようです。
ドジは、受験勉強のため一心に参考書に目を通しています。一方、相部屋の2人は、ドジらのすぐ脇で、小卓を囲んで酒盛りを始めました。「おーい!お女将さん、酒を持ってこい!鶏肉やつまみもたっぷりと….」とご機嫌です。以下その折の会話。
相部屋氏:「雑科を受ける医者であろう、こっち来て飲め!雑科ごときを受けるのに、必死で勉強してる?」 「頭も悪いのさ!」
ドジ:「人の命を預かる大事な仕事です!雑科もれっきとした科挙で、内医院に入りオイ(御医*2)となるための関門です。」
相部屋氏:「“樽酒(ソンシュ) 家 貧(ヒン)にしてただ旧醅(キュウバイ)あり。肯えて隣翁(リンオウ)と相対して飲まんや。”;大した料理はなく、古い酒があるだけ。隣人でも誘って飲もうではないか! 分かるか?学問をやるなら、李白の詩ぐらい常識だ!私が上流階級の風雅を教えてやる。ここへ来て飲め!どうした 飲めというのに!」
ホ・ジュン:「品格のある者は酒を人に無理強いなどしません! 先ほどの詩の作者は李白ではなく、杜甫です。」
相部屋氏:「なんだと?卑しい者が知ったかぶりするな!」
ホ・ジュン:「杜甫が戦乱を避けて、成都の‘浣花草堂’で書いた詩です。“但(タ)だ見る群鷗(グンオウ)の日日(ヒビ)来(キ)たるを 蓬门(ホウモン) 今始(ハジ)めて君が為に開く。” ;家に来るのはただカモメの群れだけだ。長らく来客もなかったのに、君が来てくれた。これが詩の前半部です。酒に興じるのではなく、杜甫が戦乱を避けて、世を憂えている詩なのです。疑うなら書物でご確認を!」
相部屋氏お二方は、二の句が告げず、ホウホウの体で部屋から逃げ出します。ホ・ジュンに向かって、ドジ:「学問の経験が?少々ではなさそうだ!」
ドラマの展開上、このやりとりは、ドジにとってだけではなく、視聴者にとっても、‘ホ・ジュンとは只者ではないぞ!’と強いメッセージを残した出来事の一つと言えるでしょう。事実、ドジの推挙で、ホ・ジュンは、以後‘水汲み’ではなく、医院では一階級上の‘薬草採り’の仕事をすることになります。
ホ・ジュンは、貪欲なほどに知識欲が旺盛な人のようです。かつて密貿易の首領格であったことを思えば、先の様に漢詩に詳しかったことには驚かされます。やはり表向きの生活とは裏腹に、学問・知識に対する学習意欲は衰えることはなく、わずかな機会を捉えて勉強していたのでしょう。
ユ・ウイテ医師の医院での働きぶりにおいても、学習する意欲・態度には格別な雰囲気を漂わせていて“執念”すら感じます。ホ・ジュンの生涯を題材にして、李恩成(イ・ウンソン)が最初に書いた連続TVドラマ(韓国文化放送、1976)の表題が『執念』であった由、むべなるかな と。
[注記] *1雑科:通訳や医術などの技術専門職のための試験
*2御医(オイ):王家の病気治療に当たる医師
[蛇足]
・ホ・ジュンは、目下NHKで放送中の連続TVドラマ『真田丸』の主人公、真田信繁(1567-1616)と 活躍する時代が重なります。
xxxxxxxxxxx
客至 客(カク)至(イタ)る 杜甫
舍南舍北皆春水 舍南(シャナン)舍北(シャホク)皆(ミナ)春水(シュンスイ)
但見群鷗日日来 但(タ)だ見る群鷗(グンオウ)の日日(ヒビ)来(キ)たるを
花径不曾縁客掃 花径(カケイ)曾(カツ)て客(カク)に縁(ヨ)って掃(ハラ)わず
蓬门今始為君開 蓬门(ホウモン) 今始(ハジ)めて君が為に開く
盤飧市遠無兼味 盤飧(バンソン) 市(イチ)遠くして兼味(ケンミ)無く
樽酒家貧只旧醅 樽酒(ソンシュ) 家(イエ)貧(ヒン)にして只(タ)だ旧醅(キュウバイ)あり
肯与隣翁相对飲 肯(アエ)て隣翁(リンオウ)と相对(アイタイ)して飲まんや
隔籬呼取尽余杯 籬(マガキ)を隔(ヘダ)てて呼び取り余杯(ヨハイ)を尽(ツ)くさしめん
<現代訳>
我が家の北も南も小川が流れ、春たけなわとなりました。
ここへ鷗の群れがやって来るのを、私は毎日見ています。
これまで、花咲く小道を来客のために掃き清めることはありませんでした。
今日初めて、あなたを迎えるために、我が家の門を開きます。
ごちそうは、市場が遠いため一皿しかなく、酒も、家が貧しいために、古いどぶろくがあるだけです。
どうぞ、隣のおじいさんと一緒に、飲みませんか。
垣根越しに彼を呼び寄せて、残りの酒を飲み干しましょう。
石川忠久 監修 『NHK 新漢詩紀行 ガイド 5』 日本放送出版協会 2010 より引用
『ホ・ジュン』は、ユネスコ世界記憶遺産の一つとして登録(2009)された医書『東医宝鑑』を著した現韓国の王朝時代に生きた医師ホ・ジュン(1539-1615)の物語です。このドラマは、韓国でも高い視聴率を記録したということですが、日本でも評判がよく一度ならず放映されたようです。
筆者が視聴したのは、2,3年前に、BS日テレ放送、キム・ジョヒュク主演の『ホ・ジュン』でしたが、リメイク版の由、やはり人気は衰えていないということでしょうか。
まず、『東医宝鑑』について少し触れておきます。
李王朝・宣祖(1552‐1608)の時代です。当然、環境や生活習慣、病理などに合わせた朝鮮独特の考え方や医療技法があったはずですが、当時、朝鮮国では従来の朝鮮医学は忘れられていて、もっぱらお隣明国の医術が広く応用されていたらしい。
しかし近隣との政治状況の変化で、明薬の輸入が困難になってきて、忘れ去られていた朝鮮独特の郷薬(いわゆる漢方薬)の復活が必須の状況となった。この機に合わせて、明医学を基礎にしながらも、従来の朝鮮医学を含めた医療体系の再構築の必要に迫られた。
そこで宣祖の王命(1596)により、内医院(ネイウオン)でホ・ジュンを中心に、新しい医学書の編集作業が始められた。しかし翌年(1597)、近隣諸国からの侵入が度重なり編集作業は中断された。ホ・ジュンは、疎開先に資料を持ち運び、自ら生涯を掛けた仕事として編集に取り組み、1610年に完成させています。
同書は、23編25巻からなる大著で、内科・外科系、薬剤、針灸など医療全般にわたり、実用性を重んじた内容となっている由。1613年に『東医宝鑑』の名で刊行され、朝鮮第一の医書として高い評価を得た。また中国・日本など漢字文化の国では、翻訳の必要がなく広く流布されたようです。
このような大著を成したホ・ジュンの偉大さには頭が下がる想いですが、驚かされることは、その出自が並みではなく、想像を絶する苦難を乗り越えなければならなかったことです。まさにドラマの主題となる所以です。
当時、かの地では絶対身分制度の下にあって、両班(ヤンバン、貴族)と呼ばれる特権階級があった。下層の人々に対しては、‘切り捨てごめん’の絶対権力がのしかかり、また身分差間の結婚は認められず、結婚が明るみに出れば、両者ともに罰せられるという具合であったようです。
ホ・ジュンは、父親が武官、龍川地方の長官で、の母親との間に生まれた庶子です。子供の頃から才気渙発の気質があり、武芸を修め、また本邦の寺小屋風の塾での学業成績もよく、父親も目を掛けている所があった。
しかし、の子であるがゆえに、嫡男の義兄やその仲間たちばかりでなく、周りの人々からも虐められて育つ。並みの身分でないことをいろいろな体験を通して知らされるに及び、青年期には、密貿易の首領格となり、自堕落な生活を送るようになる。
終には、密貿易が発覚し逮捕されて、長官である父親に罪の類が及ぶことになった。父親は、昔の仲間が山陰(サヌム)にいるから と紹介状を認め、「身分を言い訳にして人生を無駄にするな!」と諭して、ジュンを龍川から山陰に逃してやります。
山陰では、父親から頼れと言われた人はすでに此の地から去っていて、路頭に迷うことになる。しかし幾多の挫折を味わいながらも乗り越えていき、‘心医’の名声が高い医師ユ・ウイテの医院で仕事を得て、医術を修めたいと心に決める。
同医院での仕事は、薬を調製するための水を汲んでくる‘水汲み’です。天秤棒の両側に水桶をぶら下げて、肩に掛け、山奥の泉から水を運んでくる。仕事初めに運んできた水は、「使い物にならん!」と、ユ・ウイテ医師に怒鳴られ、水を頭からぶっかけられる。
薬の調製に適した水の泉をさる人に教わり、以後は立派に役目を果たしていく。その勤めぶりは、ユ・ウイテの目に止まったようです。ユ・ウイテの息子ドジが、内医院の医師になるべく、科挙の受験のためハニヤン(今のソウル)へ旅立つに当たって、彼の身の周りの面倒を見るようにと、ジュンは、ユ・ウイテから大事な役目を仰せつかったのです。
旅の途上、宿場で起きた出来事が、今回取り上げた漢詩・杜甫作『客至る』に関係します。その宿場でのやりとりが、当時の時代状況や漢詩の内容についてすべてを語っていますので、その出来事を紹介することにします。なおご参考までに、末尾にその漢詩と読み下しおよび現代訳を挙げました。
宿場では、泊まり客が多く、どこも満室状態でした。ドジとジュンは、藁葺宿屋の3, 4畳ほどの小さな部屋で、他の見知らぬお客さん2人と相部屋を余儀なくされます。ドジが医術関連の科挙(雑科*1)の受験者であるのに対して、相部屋の2人は両班で、高級官僚を目指す上位の科挙の受験者のようです。
ドジは、受験勉強のため一心に参考書に目を通しています。一方、相部屋の2人は、ドジらのすぐ脇で、小卓を囲んで酒盛りを始めました。「おーい!お女将さん、酒を持ってこい!鶏肉やつまみもたっぷりと….」とご機嫌です。以下その折の会話。
相部屋氏:「雑科を受ける医者であろう、こっち来て飲め!雑科ごときを受けるのに、必死で勉強してる?」 「頭も悪いのさ!」
ドジ:「人の命を預かる大事な仕事です!雑科もれっきとした科挙で、内医院に入りオイ(御医*2)となるための関門です。」
相部屋氏:「“樽酒(ソンシュ) 家 貧(ヒン)にしてただ旧醅(キュウバイ)あり。肯えて隣翁(リンオウ)と相対して飲まんや。”;大した料理はなく、古い酒があるだけ。隣人でも誘って飲もうではないか! 分かるか?学問をやるなら、李白の詩ぐらい常識だ!私が上流階級の風雅を教えてやる。ここへ来て飲め!どうした 飲めというのに!」
ホ・ジュン:「品格のある者は酒を人に無理強いなどしません! 先ほどの詩の作者は李白ではなく、杜甫です。」
相部屋氏:「なんだと?卑しい者が知ったかぶりするな!」
ホ・ジュン:「杜甫が戦乱を避けて、成都の‘浣花草堂’で書いた詩です。“但(タ)だ見る群鷗(グンオウ)の日日(ヒビ)来(キ)たるを 蓬门(ホウモン) 今始(ハジ)めて君が為に開く。” ;家に来るのはただカモメの群れだけだ。長らく来客もなかったのに、君が来てくれた。これが詩の前半部です。酒に興じるのではなく、杜甫が戦乱を避けて、世を憂えている詩なのです。疑うなら書物でご確認を!」
相部屋氏お二方は、二の句が告げず、ホウホウの体で部屋から逃げ出します。ホ・ジュンに向かって、ドジ:「学問の経験が?少々ではなさそうだ!」
ドラマの展開上、このやりとりは、ドジにとってだけではなく、視聴者にとっても、‘ホ・ジュンとは只者ではないぞ!’と強いメッセージを残した出来事の一つと言えるでしょう。事実、ドジの推挙で、ホ・ジュンは、以後‘水汲み’ではなく、医院では一階級上の‘薬草採り’の仕事をすることになります。
ホ・ジュンは、貪欲なほどに知識欲が旺盛な人のようです。かつて密貿易の首領格であったことを思えば、先の様に漢詩に詳しかったことには驚かされます。やはり表向きの生活とは裏腹に、学問・知識に対する学習意欲は衰えることはなく、わずかな機会を捉えて勉強していたのでしょう。
ユ・ウイテ医師の医院での働きぶりにおいても、学習する意欲・態度には格別な雰囲気を漂わせていて“執念”すら感じます。ホ・ジュンの生涯を題材にして、李恩成(イ・ウンソン)が最初に書いた連続TVドラマ(韓国文化放送、1976)の表題が『執念』であった由、むべなるかな と。
[注記] *1雑科:通訳や医術などの技術専門職のための試験
*2御医(オイ):王家の病気治療に当たる医師
[蛇足]
・ホ・ジュンは、目下NHKで放送中の連続TVドラマ『真田丸』の主人公、真田信繁(1567-1616)と 活躍する時代が重なります。
xxxxxxxxxxx
客至 客(カク)至(イタ)る 杜甫
舍南舍北皆春水 舍南(シャナン)舍北(シャホク)皆(ミナ)春水(シュンスイ)
但見群鷗日日来 但(タ)だ見る群鷗(グンオウ)の日日(ヒビ)来(キ)たるを
花径不曾縁客掃 花径(カケイ)曾(カツ)て客(カク)に縁(ヨ)って掃(ハラ)わず
蓬门今始為君開 蓬门(ホウモン) 今始(ハジ)めて君が為に開く
盤飧市遠無兼味 盤飧(バンソン) 市(イチ)遠くして兼味(ケンミ)無く
樽酒家貧只旧醅 樽酒(ソンシュ) 家(イエ)貧(ヒン)にして只(タ)だ旧醅(キュウバイ)あり
肯与隣翁相对飲 肯(アエ)て隣翁(リンオウ)と相对(アイタイ)して飲まんや
隔籬呼取尽余杯 籬(マガキ)を隔(ヘダ)てて呼び取り余杯(ヨハイ)を尽(ツ)くさしめん
<現代訳>
我が家の北も南も小川が流れ、春たけなわとなりました。
ここへ鷗の群れがやって来るのを、私は毎日見ています。
これまで、花咲く小道を来客のために掃き清めることはありませんでした。
今日初めて、あなたを迎えるために、我が家の門を開きます。
ごちそうは、市場が遠いため一皿しかなく、酒も、家が貧しいために、古いどぶろくがあるだけです。
どうぞ、隣のおじいさんと一緒に、飲みませんか。
垣根越しに彼を呼び寄せて、残りの酒を飲み干しましょう。
石川忠久 監修 『NHK 新漢詩紀行 ガイド 5』 日本放送出版協会 2010 より引用
※コメント投稿者のブログIDはブログ作成者のみに通知されます