愉しむ漢詩

漢詩をあるテーマ、例えば、”お酒”で切って読んでいく。又は作るのに挑戦する。”愉しむ漢詩”を目指します。

ビデオ紀行-1 カナダ8日間の旅 ナイアガラ(1)

2015-07-08 13:54:55 | 旅行

筆者にとって、ビデオカメラは旅の友として必須アイテムの一つである。旅それ自身楽しいものであるが、帰着後のビデオ編集作業は、忘我の境地に浸れる最も愉快な時である。映像の編集、次いでBGMの選択と結構時間・労力を要するが、仕上がり具合を頭に描きながらの作業で、何ら苦を感じない。

この6月に、HK交通社企画のツアー「カナダハイライト8日間」に参加。愛機のビデオカメラを携えて、6月24日(2015)伊丹空港を出発し、羽田経由で出国、ナイアガラ滝→バンフ国立公園→バンクーバー・ビクトリア と巡って、7月1日、関空に帰着。

残念ながら、現在、本稿にビデオ映像を投稿できる態勢にないので、まずはスチル写真で旅の模様を紹介します。

今回の旅で、まず足を踏み入れたスポットはナイアガラの滝でした。帰着後、編集作業に入る前に、レンタルビデオ店を訪ね、マリリン モンロー(Marilyn Monroe)主演のスリラー映画“Niagara”のDVDを借りてきて観賞することにした。以下、映画の場面も含めながら話を進めていきます。同映画の公開は、1953年ということで、筆者の高校時代に相当し、校則により映画鑑賞を禁止されていた頃です。時代の推移を感ずるとともに、今初めて、いわゆる‘モンロー ウオーク(Monroe-walk)’を確認した次第で、感慨深いものがある。

[1日目] ツアーでは、午後7時半ごろCPホテルに到着、旅装を解いてすぐに10階のレストランで夕食。そこで食後、午後10時ごろに撮ったのが写真1である。アメリカ滝(左)とカナダ滝(右)の両方が揃って入っており、またナイアガラ川を挟んで対岸(手前)はNiagara Parkである。両滝ともにライトアップされており、時に色を変え、幻想的な情景ではある。実は、映画‘Niagara’で、両滝が揃って出てくる場面など、そのカメラ目線、川に対する角度など、全く写真1と同じなのである。但し、映画では日中の明るい情景であるが。つまり映画撮影のカメラは、同ホテルの上階のどこか、レストランに近い辺で設定されていたらしいのである。因みに、マリリン モンローは同ホテル8階の一室(801号室)で宿泊されたとのことで、ホテル ロビー階の廊下の壁に大写しのパネル写真が掲げられていた。

写真1

カナダでは、午後9時半ごろまで明るく、いわゆる、イヴニングの時間帯が長い。写真2は、午後9時ごろ、同レストランで撮ったアメリカ滝の全景で、上流および川向こうのアメリカ側は夕陽に染まっている。滝右端の1幅の滝の部分は、ブライダルベール(Bridal-veil)滝と呼ばれている由である。

写真2

[2日目] 写真3は、昼間にテーブルロックから撮ったカナダ滝である。滝の中央部分が引っ込んでいて馬蹄型となっている。写真4は、やや離れた展望所から見たカナダ滝の上流部で、滝の近くに縦に並んだ、比較的大きい3つの島が見える。滝に最も近く、一番左の島が、映画‘Niagara’のラスト シーンで出てきた島であろうと思われる。ジョセフ コットンとジーン ピーターズの二人が、エンジンが止まり漂流しているボートに乗ったまゝ、大波に翻弄されながら下流の滝に向かって流れていく。その途中、ボートが小島にぶつかり停止した間に、ジョセフ コットンがジーン ピーターズを大波に揺れるボートから小島に降ろす。両者必死の態で、息詰まるシーンである。ジョセフ コットンは、その後すぐにボートとともに滝に落ちていくのである。

写真3
写真4

ホーンブロワー ナイアガラ クルーズ(Hornblower Niagara Cruise)で滝の真近へ。滝の真近へいくボートは、かつては「霧の乙女号、Maid of the Mist」として親しまれていたらしいが、2014年5月に新造船でホーンブロワー ナイアガラ クルーズとして再出発したようである(運営体が変わったらしい)。乗船時に支給された赤いビニール雨合羽で身を包む(写真5)が、カナダ滝の前に来ると、川面を吹き抜ける風と滝で生じた水しぶきで、あたかも台風下、豪雨に晒されているようであった。合羽からはみ出た足元と手・顔はびしょ濡れ、カメラは内懐にしまって保護する。もちろんカメラのシャッター チャンスはない。霧の合間を抜けたところがシャッター チャンス(写真6、アメリカ滝の前)。今話題の「自撮り」も活躍していた(写真7、アメリカ滝の前)。

写真5
写真6
写真7

今一つ、ナイアガラ滝をめぐる定番、ジャーニー ビハインド ザ フォールズ(Journey Behind the Falls)。エレベータで地下(?)に下って後、支給された黄色のビニール合羽を着て、トンネルを通ってカナダ滝の瀑布の裏に出る(写真8)。トンネルは二つに分かれて、それぞれ瀑布裏の開口部に至る。奥の開口部はトンネル内から外を望むだけで、瀑布の水弾が吹き込んでくる、その向こうに水煙が煙幕となり、その先は見えない。手前の開口部では階段を下りて、瀑布脇に安全柵が設けられたちょっとした広場に出る。‘Journey Behind the Falls’の看板がある。水しぶきを受けながら、瀑布を直近で見上げることができる(写真9)。映画‘Niagara’では、ジーン ピーターズ夫妻もここを訪れていて、広場の柵の裏陰でマリリン モンローが人目を避けて逢引きしている場面をジーン ピーターズが目撃するワンカットがある。“マリリン モンローは浮気をしている”ことを提示していて、物語の伏線としての貴重なワンカットとなっている。なお、映画では‘Journey Behind the Falls’’の看板はなく、開口部の木枠造りのみであった。

写真8
写真9

ところで、ナイアガラの滝は見ての通り現在でも水量は多く、豪快であるが、その勢いは岩を削り落とすことに繋がり、今日、滝の岩縁が年間約3 cm上流へ移動している由である。1万2,000年程前にはずっと下流11kmにあったらしいが、徐々に削られて今日の場所になったとのことである。滝近くの展望所にあったパネルでは、約400年前からのその推移が示されていた(写真10)。馬蹄形の滝口が作られていく様子がわかる。なお、かつては年間1m程上流に移動していたそうであるが、エリー湖‐オンタリオ湖の間に運河を開通して流水量を調節するようになり、年間約3cm程度の後退で抑えられているとのことである。それでも2万5,000年後には滝は消滅すると試算されているようだ。

写真10

次にナイアガラ川と滝に係わるエピソード2つ。
CPホテル ロビー階廊下の壁には、マリリン モンローの写真と並んで、冒険家たちの写真パネルも展示されていた。一つは、ナイアガラ川に渡した綱の上を渡る曲芸“綱渡り”であり、今一つは、滝を下る“滝下り”に関連した写真である。

アメリカ側からカナダ側テーブルロック近くまで渡した長さ550mのケーブル上で、長さ20mほどの竿を両手で携えてバランスをとっている写真である。サーカス小屋でよく見る “綱渡り”をスケールアップした、まさしく曲芸である。川面より高さ60mに張られた幅5cm のケーブルの上を徒歩で20分かけて渡り切ったという。それに成功したのは、ニック ワレンダ(Nik Wallenda)、米国人で当時36歳。2012年6月15日のこととある。153年前(1859年 6月30日)には、フランス人冒険家チャールズ・ブロンデン(Charles Blondin)が、現在のレインボー ブリッジの辺りに綱を張り背中に父親を背負い綱渡りに挑戦し、やはり成功した記録があるようだ。 

“滝下り”については、これまでに挑戦した冒険家が15人いて、内10人が生還しているようだ。但し現在は法律で禁止されていて、犯した者にはかなりの額の罰金刑が課せられるとのことである。また滝の上流で事故に合い、滝に流されて生還した子供の例もあるという。さて“滝下り”に最初に挑戦したのは、1901年、63歳の米国女性、アニー テイラー(Annie Edson Tailor)とのことである。学校の先生をしていたが、余生を金銭的にも安泰に送れるようにと挑戦したようである。ビア樽を縦長にしたような樽を自ら設計し、マットレスなどを詰めて体を保護するようにして、最後に友達が自転車用の空気入れで空気を樽に入れ、コルク栓で穴を塞いでナイアガラの流れに任せた。樽はカナダ滝の方に流れていき滝を下ったとのことである。少々傷を負ったが、見事に生還したようである。CPホテルのロビー階廊下の壁には、アニー テイラーが樽に手を掛けてポーズを取っている写真11と同じ写真が掲げられていた。(つづく)

写真11(Wikipediaから)
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閑話休題11 漢詩を読む 詩経(4)

2015-07-04 10:50:30 | 漢詩を読む

孔子は、中国の春秋時代で今から2500年ほども前の人である。2、3年前であろうか、NHKで、中国語の達者な日本の若い俳優さんが孔子の末裔と言われるお宅を訪ねる番組が放送されました。詳細は記憶が定かではありませんが、七十何代目の末裔ということであったように思う。孔子の直系と自称する人は、途方もなく多く、世界各地にいるらしい。中でも孔子一族の本家の主で、孔子77代目当主と言われる方が、現在、台湾にお住まいとのことである(2006年8月現在、高橋茂男:http://www.jnpc.or.jp/communication/essay/e00022357/)。因みに孟子の家系も連綿と続いていて、その75代当主と言われる方も台湾にお住いのようである(同上)。

三国時代の読み物で、孔姓の人物ばかりでなく、三国時代の一角を担った蜀の劉備は、漢帝国を築いた劉氏の後裔の一人として語られている。

事ほど左様に、先祖代々の家系を大事に思う思想は中国では多分に古い時代からあり、現代に息づいているように思われる。春秋時代にあっても「○○家(け)」の出ということが人を評価する一つの尺度であったのではないでしょうか。

本稿での主題は、先に挙げた『詩経』の中の一首、「桃夭(とうよう)」、第1および2章の第4句に出てくる“室家” および“家室”についてである。筆者が目を通した限りの書物では、両語句は、押韻に合わせて語順をひっくり返しただけで、いずれも“お家(うち)”または“家庭”の意味であると解している。しかし同詩の中では異なる意味が謳いこまれているのではないか と思われてならないのです。つまり、第1章の“室家”は、先祖代々から末裔を含めた「○○家」の家系と読めるのではないか と。但し確たる根拠を見出しているわけではありませんが。

敢えてその根拠として挙げるとすれば、先に「采葛(さいかつ)」で述べた、募る想いの深さを第1~3章で順次に伸びる時間の長さに表現したと同様の発想である。すなわち、「桃夭(とうよう)」でも同じ文脈で、第1~3章と、嫁ぎ先の“お家”に関る事柄の“室家”、“家室” および“家人”を、大から小単位へと順次に、それぞれ、‘ご先祖の栄光をさらに末代へと続くべき家系、○○家’、‘当代のお家・家庭’および‘家人’と解釈したいのですが、如何でしょうか?嫁いでいく娘を言ほぐ気持ちがより大きく表現されるように思われます。
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