昨年の未曾有の大惨事を契機に「幸せ」をテーマにしたいくつかの著作が小さなブームになりました。その影響も受けて、以前から一度読んでみなくてはと思っていた著作を、今回手に取ってみました。
著者はフランスの哲学者エミール=オーギュスト・シャルティエ、「アラン」はそのペンネームです。本書は、フランス、ルーアンの「デペーシュ・ド・ルーアン」という新聞に寄稿した「プロポ(哲学断章)」の中から「幸福」に関わるコラムを採録したものです。
興味深い示唆・思索が数多く紹介されていますが、その中からいくつか覚えとして書き留めておきます。
まずは、不機嫌なこと、暗くなるような辛いことを解消する方法です。
アランは、頭ではなく身体を使うことを勧めています。
(p48より引用) 気分に逆らうのは判断力のなすべき仕事ではない。判断力ではどうにもならない。そうではなく、姿勢を変えて、適当な運動でも与えてみることが必要なのだ。なぜなら、われわれの中で、運動を伝える筋肉だけがわれわれの自由になる唯一の部分であるから。ほほ笑むことや肩をすくめることは、思いわずらっていることを遠ざける常套手段である。
こういった体を使うことは「礼儀作法」を大事にすることでも満たすことができます。「礼儀作法」は、ある種、動作の型を示したものだからです。
(p61より引用) 礼儀作法の習慣はわれわれの考えにかなり強い影響力を及ぼしている。優しさや親切やよろこびのしぐさを演じるならば、憂鬱な気分も胃の痛みもかなりのところ直ってしまうものだ。こういうお辞儀をしたりほほ笑んだりするしぐさは、まったく反対の動き、つまり激怒、不信、憂鬱を不可能にしてしまうという利点がある。
このように「情念」のコントロールは「思考」ではできないとアランは考えています。
(p64より引用) むしろからだの運動がわれわれを解放するのだ。人は欲するようには考えないものだ。・・・不安になやまされている時は、理屈でもって考えようとするのはやめたまえ。なぜなら、自分の理屈で自分自身の方が責め立てられることになるから。
「自分の理屈で自分自身の方が責め立てられる」、この指摘はとても示唆的なものですね。思考には際限がありません。考えても考えても、思索の深みに嵌っていくのです。
しかるに、「人はみな、己が欲するものを得る」という章で語っているようにアランは楽観的でした。しかし、その背景には、大きな前提条件がありました。
(p98より引用) 望んでいるものは何でも、人を待っている山のようなもので、とり逃がすこともない。しかし、よじ登らねばならない。・・・われわれの社会は、求めようとしない者には何ひとつ与えない。辛抱強く、途中で放棄しないで求めようとしない者には、とぼくは言いたい。
ただし、「求める」とは、単に「そうなりたい」と思うことではありません。思うことと志すこととは全く異なる次元のものです。
(p104より引用) 期待を抱くことは意志をもつことではない。
意志とは強い決意です。こうありたい、こうなりたいとの決意は、その「望み」に向かう「行動」によってのみ顕れるのです。
(p96より引用) 運命とは移り気なものだ。指先の一はじきでもって新しい世界が出来上がる。どんな小さな努力でも、それをすることで、無限の結果が生まれてくる。
本気で求めることは、そのための努力を惜しまないことです。どんなことからでもいい、ともかく、まず動き始めることです。
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幸福論 (岩波文庫) 価格:¥ 840(税込) 発売日:1998-01-16 |