朝のNHKの番組で紹介されていたので手に取ってみました。
著者の服部正也さんは1918年生まれ、太平洋戦争に従軍後日本銀行に入行。その後、1965年にルワンダ中央銀行総裁として出向したのですが、本書はその時の奮戦記録です。
着任にして早々、服部氏は銀行の実態を見聞きしそれが予想を超えた状況であることに衝撃を受けました。そこからのスタートです。
(p25より引用) とにかく、引受けた仕事なのだからやらなければならない。なるほど中央銀行の現状は想像を絶するくらい悪い。しかしこれは逆に見れば、これ以上悪くなることは不可能であるということではないか。そうすると私がなにをやってもそれは必ず改善になるはずである。要するになんでもよいから気のついたことからどしどしやればよいのだ。働きさえすればよいというような、こんなありがたい職場がほかにあるものか。ベッドのなかでこう考えつくと私は、苦笑しながらも安らかな気持で寝についた。
銀行の経営状況はもとより、組織内の人間関係にも問題がありました。行内に派閥の悪弊があるとの情報への対処。服部氏はそのひとつひとつの事象の事実関係を確認して、こう判断しました。
(p67より引用) 結局私は、いわゆる派閥なるものは、じつは銀行の首脳のだらしなさと不和とによるものだと判断した。従って派閥征伐の必要はなく、人事を公正に運営することと、私が直接職員と職務上接触することによって、私が行員の勤務や能力を知っていることを職員に感じさせることによって、職員の和が達成できると考えた。
この対応に見られるように、服部氏は何事においても自分自身で事実を確認することを疎かにしませんでした。そして、そこで把握した情報に基づき的確に個々の問題に対処していったのです。見事な姿勢ですね。
さて、本書を読み通してですが、上述のエピソードの他にもとても勉強になるくだりが山ほどありました。
その中から2・3、書き留めておきます。
まずは、改めて、政策決定を行う上での服部氏の基本姿勢についてです。
服部氏は、事実に基づく通説・俗論の評価・検証を踏まえ、本質的な判断の基軸を設定したうえで具体的な解決策を策定します。そして、その実現方法を多角的・段階的に整えていくのです。
(p248より引用) 途上国が後進経済から脱却する道が自活経済から市場経済への転換であれば、流通機構の整備が肝要なことはいうまでもない。また市場経済への転換過程が始まった途上国が恒常的な経済発展をするためには、民族資本の継続的形成が不可欠である。じつは私はルワンダにいく前から、アジア諸国との接触をつうじて、戦後の途上国発展の論議において、外貨の役割と工業化の必要とが過当に重視され、民族資本の育成と流通機構の整備という地道で手近な問題が忘れられているのではないかとの疑問をもっていた。そしてルワンダの経済再建計画を計画し、実施していく過程で、この疑問は確信にまでなったのである。
と基本的方針を整理したうえで、その実現に向けた施策に取り組んでいきました。服部氏が採った具体的なアクションは次のような段取りで進められたのです。
(p248より引用) 経済再建計画答申の段階では、生産増強の重点を農業におき、農業を自活経済から市場経済へ引出すため流通機構の整備が必要とされ、そのための重要な施策として、ルワンダ人商人の育成が考えられた。通貨改革後、この流通機構整備の努力は中央銀行を中心として一貫してつづけられるが、ルワンダ人商人の育成は彼らが通貨改革後の新体制に確実に地歩を固めたと認められた一九六七年から積極化し、一九六九年からは従来の流通機構整備の見地に加えて、民族資本形成の目的からも強力に推進されることとなるのである。
また、特に海外からの技術顧問らとのやり取りでしばしばみられる彼らの人種的・民族的偏見も、服部氏は理性的に一刀両断に切り捨てます。
(p336より引用) アフリカで、すぐには理解しにくいことに当面すると、外国人は「これがアフリカなのですよ」で片付けることが多い。つまりアフリカ人は後れていて、我々とは違った考え方をし、我々には分からない行動に出るというアフリカ人異質論である。アフリカ人異質論は、日本人異質論と同じく、これを肯定すれば、何事も説明できる便利なものである。
しかし、同時に理性的な対話の可能性を否定し、問題解決には役に立たないものである。
当然の態度ではありますが、これをどんな状況下でも貫徹し切るというのは誰でもできることではありません。
そして、通貨改革・経済再建計画を何とか軌道に乗せていよいよルワンダを離れることとなったとき、服部氏はこう述懐しています。
(p293より引用) 私は六年間、ルワンダ人とは広く深く接触したが、その場合つねに一線を画することは忘れなかった。・・・私は自分に対するルワンダ人の親愛の表現も一切、私の地位に対するものとして心の中では拒否しつづけた。ところがいよいよ私が本当に帰ると知れわたったときのルワンダ人の反応は意外であった。大臣たちはじめ官吏、商人、村長までが別れを惜しみにきてくれた。・・・近く帰国する私に対する、このルワンダ人の惜別の行動を見て私は、従来私に対して示した彼らの親愛の情が、本当のものであると認めざるをえなかった。そうしてそれを、どうせ地位に対するものだろうと、頑なに拒否していた自分の心情をかえりみて、彼らに申訳ない気がした。
さらに、服部氏の自宅で大統領も出席した送別会での大蔵大臣の送別の辞とそれを受け止めた服部氏の想いは本当に感動ものでした。
(p294より引用) 「あなたは、ルワンダ国民とその関心事とを知るため、(外国人の)クラブや協会や、滞在期間が長いという理由で、当国の事情を知っていると僭称する人たちから聞きだすことをせず、直接ルワンダ人にあたって聞かれた。他の多くの技術援助員の考えかたや、その作業を毒する偏見にわずらわされることなく、あなたはルワンダ人に相談してその意見を聞いた(中略)。あなたの基本態度は、ルワンダ国民のために働くのであるから、まずルワンダ人にその望むところを聞かなければならないということでした」
この送別の辞の大部分を占める、私の業績に対する讃辞には、私は感動はなかった。職務を立派に遂行することは俸給に対する当然の対価であって、あたりまえのことをしたからといって讃められることはない。しかし私のルワンダとルワンダ人を理解しようとした努力を、ルワンダ人が理解してくれたことは、私の大きな喜びであり、私に対するルワンダ人の信頼が、単に外国人崇拝とか地位に対する盲信によるものではなく、自分たちを理解しようとしている異国人の努力に対するものであったことを知った。・・・
こうして私は、ルワンダ滞在の最後の一月になって、自分にルワンダ人の友が多数できていたことを発見し、じつに後髪を引かれる思いでルワンダを去ったのである。
久しぶりにしっかりと実の詰まった骨太の本に出合えました。評判どおりの名著だと思います。