かなり以前に読んだ内田康夫さんの“浅見光彦シリーズ”ですが、このところ、私の出張先が舞台となった作品を、あるものは初めて、あるものは再度読んでみています。
今回は、“沖縄”です。
沖縄に初めて行ったのは学生の時、もう40年以上前、大阪南港から船中2泊の旅でした。さらに石垣島までも船旅でしたから、当時は“元気”でしたね。離島では「車は左、人は右」と書かれた看板が、色褪せてはいましたが、まだ残っていたころでした。
その後社会人になって出張で訪れたのは那覇が多いのですが、いくつかの部署では沖縄でイベントを開催することもあったので恩納や万座のあたりにも足を伸ばしたことがあります。その行き帰りでは、この物語の中で浅見光彦が行き来した沖縄自動車道も何度も通っています。
さて、この作品、ネタバレになるとまずいので内容には触れませんが、いつもの浅見光彦の推理のキレは見られませんでしたね。こういったところを見落とすのかと、正直ちょっと拍子抜けでした。
陽一郎からの警告めいた忠告も別に回収されることもなく捨て置かれたり、始めの方に登場する伏線が結構かなり核心に近くてミエミエだったりとミステリーとしての構成的にもかなり雑な印象です。
シリーズの中では、BマイナスからCといったところでしょうか・・・。
通勤で利用しているJR駅のエキソトにある書店で平積みになっていました。気になっていたのですが、いつもの図書館にも所蔵されていたのでさっそく借りて読んでみました。
「時間管理」をテーマにしたHowToモノはよく見かけますし、最近では「コスパ(コストパフォーマンス)」と並んで「タイパ(タイムパフォーマンス)」という言葉も一部で使われているようです。
紹介文を読む限りでは、本書はちょっと切り口がユニークそうですね。私の興味を惹いたところから、2、3覚えに書き留めておきましょう。
まずは、著者の議論のスタートとなる「時間管理」についての基本スタンスです。
(p56より引用) どんなに効率的にやっても、忙しさは終わらない。その事実を理解していれば、いつか平穏な日々がやってくるのではないかという非現実的な期待を持たなくてすむ。理想的な未来を待ちわびるかわりに、今の生活に平穏を見いだすことができる。
“ひとつのことをやり終えたと思っても、すぐその余白はすぐ次のことが埋めてしまう”、そしてそういった現実に加えて “自分ができることには限界がある”ということを理解するのです。
限界を意識すると、「将来」に期待する無意味さと「今」の大切さに気づきますね。
(p156より引用) 実際、人生のあらゆる瞬間はある意味で「最後の瞬間」だ。時は訪れては去っていき、僕たちの残り時間はどんどん少なくなる。この貴重な瞬間を、いつか先の時点のための踏み台としてぞんざいに扱うなんて、あまりにも愚かな行為ではないか。
(p159より引用) 人生の「本当の意味」が未来にあると信じることで、今この時を生きることから逃げているわけだ。
“未来を夢見る”ことが全く無意味だとは思いませんが、それがために“今”を軽んじるのはある種“無責任”ですし、確かに目の前の現実からの“逃げ”であり、その“言い訳”とも言えます。
本書を通じて説かれている著者の主張は、
「時間を効率的に使って、やるべきだと思うことを全てやろうとしても無理。目の前にある『次にすべきこと』『それしかできない』ことをやろう、すなわち“今、やれることをやろう”」
ということのようです。
そのアドバイスは直截的で首肯できるものです。ただ、そのことを伝えるのに本書の説明はあまりにも冗長です。ページを繰るごとに立論が深まっていくのではなく、同じところをぐるぐる回っているだけのような説明ぶりです。
それこそ “タイパ(タイムパフォーマンス)”が悪い本でしたね・・・。
いつもの図書館の新着本リストの中で見つけた本です。
松岡正剛さんの著作は久しぶりです。
もともとは10年ほど前の週刊誌への連載記事の再録ですが、それをベースに現在までの小文を大幅に追加したものとのことです。正剛さんが切り出したキーワードと写真(撮影:太田真三さん)とのシナジーが楽しみで手に取ってみました。
さっそく、その中身ですが、冒頭記したように「週刊ポスト」の連載なので“文章”は軽めのエッセイ・テイストで、いつもの “編集をコンセプトにした論考” とはかなり趣きは異なっていましたね。とはいえ、その中でも、ちょっと“正剛”色の出ていると感じたところをいくつか書き留めておきます。
まずは、「苗代」がテーマの小文から。
(p222より引用) ここには独特の日本流の方式がある。グローバル・スタンダードなシーズ(材料)やコード(方法)を海外から取り入れても、それをいったん日本の風土や仕組みの中で選別編集し、そのうえで優秀な農産物や工業製品にしていくという方式だ。そこには「育む」という方法が生きている。
このあたりの言いぶりは、妙に心地よく響いてしまいます。
もうひとつ、「纏う」と題する一文から。
(p403より引用) 半纏が男の意気地だとすると、女の意気地はイキジと読んで、襦袢や半襟や染め柄で勝負した。これが「粋」である。男女を問わず、こうした意気地にピンとくる者たちは「通」、わからんちんは「野暮」だった。
何にせよ、江戸っ子では逃げ腰やわからんちんが嫌われる。二ツ返事で正念場を引く受けるのが「勇」(いさみ)だったのである。
こういった「語句(コンセプトワード?)」の出自をテンポよく語るくだりも “セイゴオ節” ですね。
ただ、読み終わってみて、どうでしょう。この本、ちょっと私には合いませんでした。
チャレンジングな企画だとは思いますが、「日めくりカレンダー」のようなパラパラと乾いた感じがして、一枚一枚の写真を受け止めてそれに呼応する正剛さんの感性を味わうだけの力量が私にはなかったようです。残念。
かなり以前に読んだ内田康夫さんの“浅見光彦シリーズ”ですが、このところ、私の出張先が舞台となった作品を、あるものは初めて、あるものは再度読んでみています。
今回は、都道府県レベルですが、ひとつの作品で3ヵ所をカバーしています。“北海道” “石川・福井” “福岡” です。
いずれの地も都道府県としては出張で何度も訪れていますが、残念ながら作品の具体的な舞台はピンポイントで私が訪れた所ではありませんでした。余市の「ニッカウヰスキー余市工場」はプライベートで何度か見学に行ったことがあるくらいですね。
(p21より引用) ウイスキーの工場は広大な敷地の中に蒸留棟や貯蔵庫などの建物が十数棟建っている。正門を入ると左手に受付があり、あらかじめ見学を申し入れておくと、ここから先をガイドの女性が案内する。
さて、この作品ですが、ネタバレになるとまずいので内容には触れませんが、久しぶりに “オーソドックスなしっかりした出来映え” だったように思いました。
“旅情ミステリー” に相応しく舞台となった場所の描写も精緻で内田さんの拘りが伝わってきますし、登場人物もそれぞれにメリハリがあって魅力的でした。そして、ラストもお決まりの “浅見光彦の黙認パターン” 。
この作品は“浅見光彦シリーズ”の中でも結構最後に近いものですが、“一本芯の通ったワンパターン” の存在感を誇示しているように思いました。
いつも利用している図書館の新着本リストで目に付いた本です。
塩野七生さんの著作は、代表作「ローマ人の物語」をはじめ、この「日本人へ」と副題がつけられているシリーズも「リーダー篇」「国家と歴史篇」「危機からの脱出篇」「逆襲される文明」と読み続けています。
ということで当然のごとく本書も手に取ったというわけです。タイトルは編集者のセンスでもあるのでかなり刺激的なものですが、内容は塩野さんの感性で綴ったエッセイです。
予想どおり興味を惹いたところは数多くありましたが、その中から特に印象に残ったところをひとつ書き留めておきます。
“衆愚政”に陥りつつある今日の政治。これはイタリアもそうですし日本もそうですが、この状況に対し「女性や若者を制度的に一定割合登用せよ」という処方箋を示している塩野さんが、とはいえこの点には注意せよと指摘しているくだりです。
(p81より引用) ただし、次の二つは忘れないでもらいたい。
第一は、全員のためを考えていては一人のためにもならないという、人間性の真実。
第二は、全員平等という立派な理念を守りたい一心こそがかえって、民主政の危機という名で、民主政からポピュリズムに堕す主因になっているという歴史の真実である。
このあたりの言い回しは、いかにも“塩野さん流”ですね。
さて、本書を読んでの感想ですが、エッセイで扱っている材料のかなりの部分が「現在のイタリアの政治状況」であることもあり、今ひとつ馴染めないところがありました。
「誰が国家を殺すのか」という本書のタイトルからすると、確かに相応しい内容なのだとは思いますが、私としては、正直なところかなりの物足りなさが残りましたね。塩野さんの本にしては珍しいことです・・・。