この世界の憂鬱と気紛れ

タイトルに深い意味はありません。スガシカオの歌に似たようなフレーズがあったかな。日々の雑事と趣味と偏見のブログです。

断崖にて、その1。

2005-06-01 23:49:10 | 不定期連載小説『断崖にて』(完結済)
 崖下を見下ろすと目もくらむような高さだった。
 スカートのすそがばさばさと風に揺れる。
 今さらながら私は自分が高所恐怖症であることを思い出した。足がすくんでしまうのが我ながら情けなかった。
 ここに来るまで迷いなんて少しもなかったのに。
 あと一歩。あと一歩でいい。ほんのあと一歩。
「飛び降りるつもりですか?」
 男の声に私は本当に驚いた。
 ついさっき辺りを見回したときは誰もいなかったのだ。
 振り返ると男が一人立っていた。これといって特徴のない顔に人のよさげな笑みを浮かべていた。
「違いますよ、どれぐらいの高さがあるのかなぁと思って、覗き込んでいただけです」
 ぎこちない笑みを返し、そう私は下手な言い訳をした。
 私の答えになるほどと頷きながら、男は一歩私に近づいた。
「確かに人は高いところに登るとどうしても下を見たくなってしまうものですよね。足がすくむのはわかりきっていることなのに」
 男は私の横に立つとそーっと首をめぐらして下を覗き込んだ、と思う間もなく、ヒョェ!と短く叫び声を上げて後ろに飛び退った。
「ダメです、絶対にダメ。実は自分は高所恐怖症なんです。いつかは克服できたら、と思ってはいるんですけど、でもダメです」
 男は傍目から見て気の毒なほどぶるぶると震えながら、もう少し崖の淵から離れませんか、と私に提案した。
 考えてみればおかしな話だった。男のことなどさっさと無視して飛び降りてしまえばよいのに、なぜか私は素直に男の提案に従った。
 私たち二人は手近にあった二つの岩に向かい合うように腰を下ろした。
 蒸し返すようですが、男はそう断りながら、こちらの方を見た。
「やっぱりあなた、飛び降りようとしていたんでしょう?」
「ち、違いますよ!」
 慌てて男の言葉を否定する。
「さっきも言ったとおり、好奇心で覗き込んでみただけです」
 私が語気荒く強調すると、男はハァと大きくため息をついた。
「残念です」
 私が飛び降りないとなぜ男が残念がらなければいけないのか、わけがわからなかった。
 そして男は真顔でこう言った。
「私、こう見えても幽霊なんです」
 男はさらにわけのわからないことを言った。

                      つづく。
コメント (20)
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