この世界の憂鬱と気紛れ

タイトルに深い意味はありません。スガシカオの歌に似たようなフレーズがあったかな。日々の雑事と趣味と偏見のブログです。

最後の審判。

2005-06-19 23:22:02 | 読書
リチャード・ノース・パタースン著、『最後の審判』読了。

2009年5月から、裁判員制度が始まるそうですね。
個人的にいわせてもらうとこの裁判員制度には真っ向から反対です。
だってあれですよ、会社で重要なプロジェクトの一員に選ばれた!これで俺の未来は開けた!ってサラリーマンも、五歳児と三歳児の二人の子供を抱えて毎日がてんてこ舞い!ってお母さんも、みな裁判員として召還される可能性があるんですよ?
裁判員制度導入の目的に裁判が国民に身近でわかりやすいものになることを期待して、などと国はお題目を唱えてますが、冗談じゃないよ、っていいたいです。
身近でわかりやすい裁判、それ自体は大いに結構!
しかしそれと裁判員制度とはイコールではありません。
裁判員制度の導入が裁判の遅延をもたらすことは間違いないです。
何しろ裁判なんてまったく知らないド素人に毎回毎回裁判とは何かを一から学習させなくちゃいけないのですからね、それだけで滅茶苦茶時間が掛かりますって!
国は裁判員(陪審員)制度は諸外国でも採用されているっていってるけど、ベクトルが逆!
もともと裁判官の絶対数が足りなくて、仕方なく酒場で暇そうにしているオッサンを裁判につれてきたのが陪審員制度の始まりなんだから、陪審員制度を採用している国がそれを廃止していくのが正しいあり方ですって!
裁判員制度が導入されたら間違いなく裁判はゲーム化さるでしょう。
つまり、真実は二の次、検事、弁護士ともに裁判員をいかに自分たちの陣地に引き込むか、それだけを考えるようになる。
アメリカのマイケル・ジャクソン裁判を見てもそのことは明白です。

アメリカ陪審員制度についてより知りたいと思われる方は、テキスト代わりにリチャード・ノース・パタースンの小説、『罪の段階』及び『子供の目』を読むことをお薦めします。
この二冊を読めばアメリカの裁判がいかにゲームであるかがわかります。
小説としても新しい家族像を提示していて傑作です。
同じくパタースンの『ダーク・レディ』、そして今日読み終えたばかりの『最後の審判』はこれら二冊と比べると小説としての面白みにやや欠け、残念ながら傑作とはいえず、また裁判のシーンもほとんどありません。
コメント (8)
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする