この世界の憂鬱と気紛れ

タイトルに深い意味はありません。スガシカオの歌に似たようなフレーズがあったかな。日々の雑事と趣味と偏見のブログです。

断崖にて、その3。

2005-06-13 00:08:28 | 不定期連載小説『断崖にて』(完結済)
その2からのつづきです。でも未読の方はよかったらその1から読んでください。)


 私の幽霊やオカルトに関する知識は乏しいものだった。
 言い換えればそれらについてはごく常識的な範囲でしか知らない。
 しかしその中で、幽霊は昼日中現れるものではないし、馴れ馴れしく自らの置かれた境遇を語ったりはしないし、まして高所恐怖症だったりはしない。
 何より先ほど男に肩を掴まれたときのあの感触、何といえばいいだろう、あれはとても生々しいものだった。リアルだった。到底幽霊に触られたときのそれだとは思えない。
 私はあらためて男の風貌を注視した。
 先ほどこれといって特徴のない顔と感想を述べたが、それは別の言い方をすればどこででも見かけそうな顔ということであり、印象的には一日の営業を終え、帰社したばかりのサラリーマンといったところだった。
 たぶんどこかの居酒屋やビアガーデンで同じ顔を見かけていたのならもっと馴染んでいただろう。
 強いていえば顔色がちょっと悪いかなとも思えたが、それも別に血の気のないとか、土気色をしたとかいうほどのことでもなかった。
「ですからこんな立場になって初めてわかったんですけど、飛び降りる人に声を掛けるのって、そのタイミングが難しくって。早くてもいけないし、遅かったらもっといけない。それはわかりますよね?」
 男は飽きもせず話を続けていたが、私は、すいません、と言って男の話の腰を折った。
「あの、すいません、時間を教えてもらえますか?」
 私がそう尋ねると、男は手元の腕時計に目をやった。
「えっとですね、丁度一時を過ぎたところですよ。この後何か、予定でもあるのですか?」
 もちろん予定などあるわけがなかった。そんなものはない。
 ただ確かめたいことがあっただけだ。
 さえぎるものとてないから風は心地よいけれど、太陽はあるべき場所にあってその存在を主張し、男と私の足元にそれぞれ影を作っている。
 時間を確めるのに、腕時計を見る幽霊。けれどその幽霊にはしっかりと二本の足があり、おまけにご丁寧に影まである。
 そんな幽霊がいるわけがない。
 ふざけた話だと思った。馬鹿にしている。
 男はたぶん半分時間つぶしか何かで自らを幽霊と称して私をからかっているだけなのだろう。
 そのとき私はかなり腹を立てていた。
 だから、ちょっとした暴挙に出ることにした。
「あの、目のところに、羽虫が止まってますよ。追い払ってあげますから、ちょっと目を閉じてもらえますか?」
 男は私の言葉に素直に従い目を閉じた。
 そして私は小さく深呼吸すると、男の左の頬を思いっ切り、力任せに張った。
 バシッという小気味のよい、乾いた音が断崖に響いた。

                             つづく。
コメント (9)
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