気がつくとぼくは人の心が読めるようになっていた。具体的にいつ頃からだったのかは忘れてしまったけれど、ぼくがもっと小さかった頃から、そう、うんと小さい頃からだったと思う。
でもぼくみたいな存在が人の心を読めたからといって、そのことに特別意味があるとは思えなかった。
何か気の利いたことを口に出来るわけでもないし、一緒になって涙を流せるわけでもないしね。
ぼくに出来ることといえばせいぜいそばに寄り添っていてあげられることだけ、あとは、そうだな、風の歌を歌ってあげることぐらいだった。
そんなぼくだったけれど、なぜだかいつも絶えず誰かがぼくの元を訪れた。
彼らがぼくのところにきて何をするかといえば、それはもう人それぞれだった。何か聞き取れない声でぶつぶつとつぶやいたり、大の大人なのに声をあげて泣いたり、中にはぼくのことを殴ったり、唾を吐きかけたりする人までいた。
チズナはそんな人たちの一人で、彼女は何をしゃべるでもなく、ぼくに背を預けたまま、ずっと沈む夕陽を眺めていた。
彼女の心に巣食っていたのは他者への深い不信で、彼女は誰のことも、両親のことさえも信じていなかった。ぼくの知る限り友達も特にいないようだった。
時々ぼくのところにやってきて、そして夕陽を眺めては帰っていった。
彼女に対してぼくが出来ることといえば、やっぱり歌を歌ってあげることぐらいだったけれど、彼女にとってはそれもただの風のざわめきでしかないのかなとその時は思っていた。
そんな彼女がある日のこと、ぼくに向かって、あいつなら信じられるよね?とつぶやくようにいった。
あいつってのが誰のことか、ぼくが知ってるはずもなく、だけど彼女は一人で納得したように、今度あいつを連れてくるね、といって帰ってしまった。
一週間後、彼女は約束通り一人の男性をぼくの元へ連れてきた。
男はチズナよりも十歳以上も年齢が離れて見え、さえない風貌をしていたけれど、チズナを見る目つきはとても優しかった。
「この樹が君のいっていた、例の“歌う樹”なのかい?」
「あ、今わたしのことを馬鹿にしたでしょう?」
チズナは男に向かって怒ったような口調でいったけれど、その顔には笑みを浮かべていた。初めて見る、年相応の、子供っぽい笑いだった。
「馬鹿になんかしてないけれど、君にも子供っぽいところがあったんだなぁと思ってさ」
「子供っぽいところがあったって、それ、どういう意味?」
今度こそ本気ですねたようにしてチズナは男に背を向けたけれど、顔はやっぱり笑っていた。
男があわてたようにチズナのことを必死になだめる様子は傍から見ていてとても微笑ましかった。
二人が互いを想う心に偽りは見えなかったからだ。
二人は晴れた週末の昼間をぼくと共に過ごすようになった。
そして穏やかな日々が過ぎていった。
男たちがやってきたのは雨上がりの、ある秋の日の朝のことだった。
男たちは手に手に杭や槌を持ち、陰鬱な表情を浮かべたまま、あっという間にぼくの周りに柵を張り巡らせ、誰も近づけないようにしてしまった。
あぁとうとうこの日がやってきたのか、とぼくは思った。
近くにいたぼくの仲間たちは次々と切り倒され、引き抜かれ、ぼくの周りから消え去っていたから、ぼくがそうなるのも遠いことではないだろうと思っていたのだ。
チズナがやってきたのはその日の夕方になってからだった。そばにはいつものように彼がいた。
チズナはぼくの周りの柵を見て呆然としていた。
そして気丈にも素手で杭を引き抜こうとしたけれど、それは人の手で引き抜けるようなものではなかった。
やがて彼女は彼の胸に顔をうずめて泣き始めた。
その日は陽が暮れても二人は立ち去ろうとしなかった。
夜になって、どこから聞きつけたのか、人が集まり始めた。中にはぼくを蹴ったり、唾を吐きかけたりした人の顔もあった。
なんだかとても不思議な気分だった。
ぼくは集まってくれた人たちのために精一杯風の歌を歌った。
「ほら、木々がこすれる音が歌に聞こえるでしょう?」
そうチズナが目を閉じたままささやくようにいうと、彼は今度は素直に、本当だね、とうなずいた。
それがぼくが生まれ育った丘で風の歌を歌った最後の夜だった。
そして今ぼくはチズナのアパートのベランダで、小さなプランターに挿し木になっている。
穏やかな日差しを浴びてとても気持ちがいいけれど、以前のように歌うことはできない。でもいつかまた、誰かのために風の歌を歌えたらいいと思っている。
それはずっと先のことになるだろうけれど。
でもぼくみたいな存在が人の心を読めたからといって、そのことに特別意味があるとは思えなかった。
何か気の利いたことを口に出来るわけでもないし、一緒になって涙を流せるわけでもないしね。
ぼくに出来ることといえばせいぜいそばに寄り添っていてあげられることだけ、あとは、そうだな、風の歌を歌ってあげることぐらいだった。
そんなぼくだったけれど、なぜだかいつも絶えず誰かがぼくの元を訪れた。
彼らがぼくのところにきて何をするかといえば、それはもう人それぞれだった。何か聞き取れない声でぶつぶつとつぶやいたり、大の大人なのに声をあげて泣いたり、中にはぼくのことを殴ったり、唾を吐きかけたりする人までいた。
チズナはそんな人たちの一人で、彼女は何をしゃべるでもなく、ぼくに背を預けたまま、ずっと沈む夕陽を眺めていた。
彼女の心に巣食っていたのは他者への深い不信で、彼女は誰のことも、両親のことさえも信じていなかった。ぼくの知る限り友達も特にいないようだった。
時々ぼくのところにやってきて、そして夕陽を眺めては帰っていった。
彼女に対してぼくが出来ることといえば、やっぱり歌を歌ってあげることぐらいだったけれど、彼女にとってはそれもただの風のざわめきでしかないのかなとその時は思っていた。
そんな彼女がある日のこと、ぼくに向かって、あいつなら信じられるよね?とつぶやくようにいった。
あいつってのが誰のことか、ぼくが知ってるはずもなく、だけど彼女は一人で納得したように、今度あいつを連れてくるね、といって帰ってしまった。
一週間後、彼女は約束通り一人の男性をぼくの元へ連れてきた。
男はチズナよりも十歳以上も年齢が離れて見え、さえない風貌をしていたけれど、チズナを見る目つきはとても優しかった。
「この樹が君のいっていた、例の“歌う樹”なのかい?」
「あ、今わたしのことを馬鹿にしたでしょう?」
チズナは男に向かって怒ったような口調でいったけれど、その顔には笑みを浮かべていた。初めて見る、年相応の、子供っぽい笑いだった。
「馬鹿になんかしてないけれど、君にも子供っぽいところがあったんだなぁと思ってさ」
「子供っぽいところがあったって、それ、どういう意味?」
今度こそ本気ですねたようにしてチズナは男に背を向けたけれど、顔はやっぱり笑っていた。
男があわてたようにチズナのことを必死になだめる様子は傍から見ていてとても微笑ましかった。
二人が互いを想う心に偽りは見えなかったからだ。
二人は晴れた週末の昼間をぼくと共に過ごすようになった。
そして穏やかな日々が過ぎていった。
男たちがやってきたのは雨上がりの、ある秋の日の朝のことだった。
男たちは手に手に杭や槌を持ち、陰鬱な表情を浮かべたまま、あっという間にぼくの周りに柵を張り巡らせ、誰も近づけないようにしてしまった。
あぁとうとうこの日がやってきたのか、とぼくは思った。
近くにいたぼくの仲間たちは次々と切り倒され、引き抜かれ、ぼくの周りから消え去っていたから、ぼくがそうなるのも遠いことではないだろうと思っていたのだ。
チズナがやってきたのはその日の夕方になってからだった。そばにはいつものように彼がいた。
チズナはぼくの周りの柵を見て呆然としていた。
そして気丈にも素手で杭を引き抜こうとしたけれど、それは人の手で引き抜けるようなものではなかった。
やがて彼女は彼の胸に顔をうずめて泣き始めた。
その日は陽が暮れても二人は立ち去ろうとしなかった。
夜になって、どこから聞きつけたのか、人が集まり始めた。中にはぼくを蹴ったり、唾を吐きかけたりした人の顔もあった。
なんだかとても不思議な気分だった。
ぼくは集まってくれた人たちのために精一杯風の歌を歌った。
「ほら、木々がこすれる音が歌に聞こえるでしょう?」
そうチズナが目を閉じたままささやくようにいうと、彼は今度は素直に、本当だね、とうなずいた。
それがぼくが生まれ育った丘で風の歌を歌った最後の夜だった。
そして今ぼくはチズナのアパートのベランダで、小さなプランターに挿し木になっている。
穏やかな日差しを浴びてとても気持ちがいいけれど、以前のように歌うことはできない。でもいつかまた、誰かのために風の歌を歌えたらいいと思っている。
それはずっと先のことになるだろうけれど。