原作大今良時、山田尚子監督、『聲の形』、10/1、ユナイテッドシネマキャナルシティ13にて鑑賞。2016年33本目。
原作は未読。と言いたいところだけど、実は(薄ぼんやりと)既読。まぁネットでも評判になってたからね。
でも、正直あんまり好きじゃなかった。
なぜ好きじゃないのか、それを言葉で説明するのは難しいのだけれど。
なので、劇場版も観に行くつもりはなかったのだけれど、(原作同様)あまりにネットで評判が高かったものだからつい観に行くことにしました。我ながらミーハーというか。
よかったですよ。観て損をした!とは思わなかった。
脚本に粗があるなとは思ったけどね。それは原作がそうだからかもしれないし、単行本7巻の長さの原作を2時間に収まるようにエピソードを取捨選択したからかもしれないし、どっちもかもしれない。
例えば、常にカメラを持ち歩いているヒロインの妹が花火大会の日に限ってカメラを自宅に忘れて、それを取りに行ってくれるよう主人公に頼んだりするところとかね。
花火大会という絶好の撮影の機会に、カメラが趣味の人間がカメラを持って行くことを忘れる、なんてことはありえない、、、と思う。
よしんばうっかりカメラを忘れたとしても、それを忘れたのは自分のミスなんだから、人に取って来てもらうように頼む、という心理が理解出来ない。
さらに言えば、(カメラが趣味という人にとって)カメラって自分の分身のようなものでしょう?しかも取りに行くためには(一時的にせよ)自宅の鍵も預けなければいけないのだし…。
もちろん、妹がカメラを忘れて、それを主人公が取りに行かなければ、その後の話が展開しなかった、というのはわかるよ。
でも逆に言えば、その後の話を展開させるために、(ご都合主義的に)妹がカメラを忘れた、とも取れるんだよね。それはちょっと感心しない…。
そんな感じで脚本にはいくつか感心しないところもあったのだけれど、それでも本作は観る価値がある、と思います。
本作は、例えばイジメ、障害、他者とのコミュニケーション、自殺、自殺、贖罪といった様々なことを考えるよいきっかけになると思うからです。
今日はその中から(作品からは若干離れますが)いくつかテーマを選んで語りたいと思います。レビューではないです。
まずは《イジメ》から。
イジメってなぜ起きるんでしょうね?
一概には言えないかもしれませんが、人は生きているのが不安なとき、もしくは生きる目標、生きがい、本当にやりたいこと、そういったものが見つからないとき、他者を貶める傾向にあると自分は考えます。
本当にやりたいことがある人間って、他人を貶めたりしないものなんですよ。言い方を変えれば、他人を貶めたり、いじめたりしている暇がない。
人生は不平等と不公平に充ちています。貧富、才能、容姿、あらゆることが平等ではない。
その中でたった2つ、平等なものがあります。
それは何かというと、命であり、時間です。
この2つのものだけは、富める者にも、貧しい者にも、老いた者にも、幼き者にも、男性にも、女性にも、あらゆる人に平等です。お金持ちだからといって命が2つあるわけじゃないし、貧乏人だからといって1日が20時間しかないわけじゃない。
命が一つしかないということは、通常それが尽きるときしか実感出来ないわけですが、時間が限られているということは、生きていればしょっちゅう実感出来ることです。時間は限られている。
その限られた時間の中で、やれることも当然限られているわけです。
にもかかわらず、他者をいじめることに時間を費やすというのは不毛なこと、この上ない。
この理屈がわかっていれば、イジメなんてものはすぐにでもなくなるのですが、いじめる側は大概イジメをしているという自覚がないので、理解しようがないんですよね。
だから、いじめられる側が意識を改革するしかない。
イジメなんて軽く受け流せばいいんですよ。いじめっ子なんて所詮他者を貶めることでしか自らのアイデンティティを見いだせない輩なんだって(それを表に出してはダメです)。
そして何より自分がやりたいことを見つける。これが大事。
もう一つ《自殺》について。
よく、残されたもののことを考えろ(そしたら自殺は出来ないはずだ)っていうじゃないですか。
自分はこの言いぐさが嫌いです。
残されるものがいるから自殺はしてはいけないというのであれば、天涯孤独で友だちが一人もいないような奴は死んでも構わないってことじゃないですか。
本当に自殺がいけないことであるなら、残されたものがいようがいまいが、いけないことであるはずです。
そもそも残されたもののことを考える精神的なゆとりがあるぐらいなら自殺なんてしないはずです。
自分は「死にたい」と思っている人に「死ぬな」とは言いません。ただ、「死んで楽になれると思うなよ」とは言いますね。
生きている間何一つ思い通りに行かなかったというのに、死んですべてが思い通りになるわけがない。そんな美味しい話はない。
だから苦しくても生きていかなきゃいけないんじゃないの?
『聲の形』を観て、そういった、取りとめのないことを考えました。
お気に入り度は★★★、お薦め度は★★★★(★は五つで満点、☆は★の半分)です。
原作は未読。と言いたいところだけど、実は(薄ぼんやりと)既読。まぁネットでも評判になってたからね。
でも、正直あんまり好きじゃなかった。
なぜ好きじゃないのか、それを言葉で説明するのは難しいのだけれど。
なので、劇場版も観に行くつもりはなかったのだけれど、(原作同様)あまりにネットで評判が高かったものだからつい観に行くことにしました。我ながらミーハーというか。
よかったですよ。観て損をした!とは思わなかった。
脚本に粗があるなとは思ったけどね。それは原作がそうだからかもしれないし、単行本7巻の長さの原作を2時間に収まるようにエピソードを取捨選択したからかもしれないし、どっちもかもしれない。
例えば、常にカメラを持ち歩いているヒロインの妹が花火大会の日に限ってカメラを自宅に忘れて、それを取りに行ってくれるよう主人公に頼んだりするところとかね。
花火大会という絶好の撮影の機会に、カメラが趣味の人間がカメラを持って行くことを忘れる、なんてことはありえない、、、と思う。
よしんばうっかりカメラを忘れたとしても、それを忘れたのは自分のミスなんだから、人に取って来てもらうように頼む、という心理が理解出来ない。
さらに言えば、(カメラが趣味という人にとって)カメラって自分の分身のようなものでしょう?しかも取りに行くためには(一時的にせよ)自宅の鍵も預けなければいけないのだし…。
もちろん、妹がカメラを忘れて、それを主人公が取りに行かなければ、その後の話が展開しなかった、というのはわかるよ。
でも逆に言えば、その後の話を展開させるために、(ご都合主義的に)妹がカメラを忘れた、とも取れるんだよね。それはちょっと感心しない…。
そんな感じで脚本にはいくつか感心しないところもあったのだけれど、それでも本作は観る価値がある、と思います。
本作は、例えばイジメ、障害、他者とのコミュニケーション、自殺、自殺、贖罪といった様々なことを考えるよいきっかけになると思うからです。
今日はその中から(作品からは若干離れますが)いくつかテーマを選んで語りたいと思います。レビューではないです。
まずは《イジメ》から。
イジメってなぜ起きるんでしょうね?
一概には言えないかもしれませんが、人は生きているのが不安なとき、もしくは生きる目標、生きがい、本当にやりたいこと、そういったものが見つからないとき、他者を貶める傾向にあると自分は考えます。
本当にやりたいことがある人間って、他人を貶めたりしないものなんですよ。言い方を変えれば、他人を貶めたり、いじめたりしている暇がない。
人生は不平等と不公平に充ちています。貧富、才能、容姿、あらゆることが平等ではない。
その中でたった2つ、平等なものがあります。
それは何かというと、命であり、時間です。
この2つのものだけは、富める者にも、貧しい者にも、老いた者にも、幼き者にも、男性にも、女性にも、あらゆる人に平等です。お金持ちだからといって命が2つあるわけじゃないし、貧乏人だからといって1日が20時間しかないわけじゃない。
命が一つしかないということは、通常それが尽きるときしか実感出来ないわけですが、時間が限られているということは、生きていればしょっちゅう実感出来ることです。時間は限られている。
その限られた時間の中で、やれることも当然限られているわけです。
にもかかわらず、他者をいじめることに時間を費やすというのは不毛なこと、この上ない。
この理屈がわかっていれば、イジメなんてものはすぐにでもなくなるのですが、いじめる側は大概イジメをしているという自覚がないので、理解しようがないんですよね。
だから、いじめられる側が意識を改革するしかない。
イジメなんて軽く受け流せばいいんですよ。いじめっ子なんて所詮他者を貶めることでしか自らのアイデンティティを見いだせない輩なんだって(それを表に出してはダメです)。
そして何より自分がやりたいことを見つける。これが大事。
もう一つ《自殺》について。
よく、残されたもののことを考えろ(そしたら自殺は出来ないはずだ)っていうじゃないですか。
自分はこの言いぐさが嫌いです。
残されるものがいるから自殺はしてはいけないというのであれば、天涯孤独で友だちが一人もいないような奴は死んでも構わないってことじゃないですか。
本当に自殺がいけないことであるなら、残されたものがいようがいまいが、いけないことであるはずです。
そもそも残されたもののことを考える精神的なゆとりがあるぐらいなら自殺なんてしないはずです。
自分は「死にたい」と思っている人に「死ぬな」とは言いません。ただ、「死んで楽になれると思うなよ」とは言いますね。
生きている間何一つ思い通りに行かなかったというのに、死んですべてが思い通りになるわけがない。そんな美味しい話はない。
だから苦しくても生きていかなきゃいけないんじゃないの?
『聲の形』を観て、そういった、取りとめのないことを考えました。
お気に入り度は★★★、お薦め度は★★★★(★は五つで満点、☆は★の半分)です。