是枝裕和監督の『三度目の殺人』が地上波で放送されていたので見ました。
地上波で見たということはつまり劇場では見なかったってことですね。
是枝裕和監督作品はあまり好きではないのです。カンヌ映画祭でパルムドールを受賞した『万引き家族』も未見ですしね。
さて、『三度目の殺人』はネットレビューをざっと見た感じだと鑑賞後モヤモヤ感が残ったという人が多くいたようです。
モヤモヤ感が残ったというのは言い換えれば事件の真相がよくわからなかったということだと思いますが、自分に関して言えばモヤモヤ感はまったく残らなかったです。
モヤモヤ感が残ったという人のために自分なりにこの作品を考察してみたいと思います。
ただ、録画していた映画を見ながら部屋の片づけなどもしたので、もしかしたら見落としていたり、勘違いしたりしている箇所もあるかもしれません。
その際はご容赦ください。
事件の真相がよくわからなかったという人がいても無理からぬことだと思います。
なぜなら事件の容疑者である三隅の供述がころころと変わりますからね。
真相がわからなかったという人はなぜ彼が供述をころころと変えるのか、それもまたわからなかったのではないでしょうか。
そこでまず三隅がどういうキャラクターなのか、分析してみたいと思います。
三隅という男は彼の一度目の殺人事件を担当した刑事も言っていますが、空っぽの器だけのような人間なんですよ。
その器の中には中身と呼べるようなものは何もない、感情すら持ち合わせておらず、人を殺しても罪の意識に苛まされることもなく、死への恐怖すらない。
その一方で三隅には人の心を読むテレパスのような力を持っています。
テレパスのような力?何を突然言い出すんだ?と思われるかもしれませんが、根拠はあります。
三隅は重森に娘がいることを言い当ててましたよね。それは(どのようにしてその情報を知り得たのか、方法が示されない限り)三隅が重森の心を読んだからそのことを知ったと考えるべきです。
いや、それだけでは三隅がテレパスだと断定するには弱いと思われる方もいるかもしれませんが、まだ根拠はあります。
それは咲江の存在です。
彼女は実の父親から性的虐待を受けていました。
そして彼女は三隅が彼女の父親を殺したのはそれが理由なのだと主張します。殺人は彼女の気持ちを忖度した結果なのだと。
どこまでが本当なのか、断定は避けますが、一つ言えるのは、三隅が咲江に対する父親の性的虐待を知っていたということです。
しかしこれはよくよく考えるとおかしい。
なぜなら咲江自ら三隅であれ誰であれ、自分が父親から性的虐待を受けていることを告白するとは考えにくいからです。
ではどうやって三隅はそのことを知り得たのか。
答えは一つしかありません。
三隅は直接咲江の心を覗いたのです。
三隅が人の心を覗けるのだとしたら、なぜ彼が供述をころころと変えたのか、その理由がわかります。
つまり彼は相手が望む答えを提供したに過ぎないのです。
量刑を少しでも軽くしたいと考える相手、真相はスキャンダラスなものなのではないかと考える相手、真相は感動的なものだと考える相手、実は彼は無実なのではないかと考える相手、それぞれ相手に合わせて答えを変えている、だから供述が一定しないのです。
では何が真実なのか?
三隅の供述が信用できないのであれば他の人物の言葉に耳を傾ければよいだけです。
つまり咲江の言葉ですね。
三隅が彼女の父親を殺したのは咲江の気持ちを忖度した結果なのです。
三隅は咲江は嘘つきだと言います。
その言葉を真に受ければ咲江が本当に父親から性的虐待を受けていたのか、怪しくなります。
しかしよく考えれば、咲江が父親から性的虐待を受けたと嘘をついても何もメリットはありません。
咲江の言葉は真実だと考えるのが妥当です。
以上が自分の『三度目の殺人』に関する考察です。
あ、『三度目の殺人』というタイトルについてですが、今日はもう遅いので、別の機会にお話ししますね。
地上波で見たということはつまり劇場では見なかったってことですね。
是枝裕和監督作品はあまり好きではないのです。カンヌ映画祭でパルムドールを受賞した『万引き家族』も未見ですしね。
さて、『三度目の殺人』はネットレビューをざっと見た感じだと鑑賞後モヤモヤ感が残ったという人が多くいたようです。
モヤモヤ感が残ったというのは言い換えれば事件の真相がよくわからなかったということだと思いますが、自分に関して言えばモヤモヤ感はまったく残らなかったです。
モヤモヤ感が残ったという人のために自分なりにこの作品を考察してみたいと思います。
ただ、録画していた映画を見ながら部屋の片づけなどもしたので、もしかしたら見落としていたり、勘違いしたりしている箇所もあるかもしれません。
その際はご容赦ください。
事件の真相がよくわからなかったという人がいても無理からぬことだと思います。
なぜなら事件の容疑者である三隅の供述がころころと変わりますからね。
真相がわからなかったという人はなぜ彼が供述をころころと変えるのか、それもまたわからなかったのではないでしょうか。
そこでまず三隅がどういうキャラクターなのか、分析してみたいと思います。
三隅という男は彼の一度目の殺人事件を担当した刑事も言っていますが、空っぽの器だけのような人間なんですよ。
その器の中には中身と呼べるようなものは何もない、感情すら持ち合わせておらず、人を殺しても罪の意識に苛まされることもなく、死への恐怖すらない。
その一方で三隅には人の心を読むテレパスのような力を持っています。
テレパスのような力?何を突然言い出すんだ?と思われるかもしれませんが、根拠はあります。
三隅は重森に娘がいることを言い当ててましたよね。それは(どのようにしてその情報を知り得たのか、方法が示されない限り)三隅が重森の心を読んだからそのことを知ったと考えるべきです。
いや、それだけでは三隅がテレパスだと断定するには弱いと思われる方もいるかもしれませんが、まだ根拠はあります。
それは咲江の存在です。
彼女は実の父親から性的虐待を受けていました。
そして彼女は三隅が彼女の父親を殺したのはそれが理由なのだと主張します。殺人は彼女の気持ちを忖度した結果なのだと。
どこまでが本当なのか、断定は避けますが、一つ言えるのは、三隅が咲江に対する父親の性的虐待を知っていたということです。
しかしこれはよくよく考えるとおかしい。
なぜなら咲江自ら三隅であれ誰であれ、自分が父親から性的虐待を受けていることを告白するとは考えにくいからです。
ではどうやって三隅はそのことを知り得たのか。
答えは一つしかありません。
三隅は直接咲江の心を覗いたのです。
三隅が人の心を覗けるのだとしたら、なぜ彼が供述をころころと変えたのか、その理由がわかります。
つまり彼は相手が望む答えを提供したに過ぎないのです。
量刑を少しでも軽くしたいと考える相手、真相はスキャンダラスなものなのではないかと考える相手、真相は感動的なものだと考える相手、実は彼は無実なのではないかと考える相手、それぞれ相手に合わせて答えを変えている、だから供述が一定しないのです。
では何が真実なのか?
三隅の供述が信用できないのであれば他の人物の言葉に耳を傾ければよいだけです。
つまり咲江の言葉ですね。
三隅が彼女の父親を殺したのは咲江の気持ちを忖度した結果なのです。
三隅は咲江は嘘つきだと言います。
その言葉を真に受ければ咲江が本当に父親から性的虐待を受けていたのか、怪しくなります。
しかしよく考えれば、咲江が父親から性的虐待を受けたと嘘をついても何もメリットはありません。
咲江の言葉は真実だと考えるのが妥当です。
以上が自分の『三度目の殺人』に関する考察です。
あ、『三度目の殺人』というタイトルについてですが、今日はもう遅いので、別の機会にお話ししますね。