カンチャン狂騒曲

日々の事をあれこれと、大山鳴動してネズミ1匹がコンセプト。趣味さまざまなどを際限なく・・。

喜怒哀楽の最中で句を詠むということ

2015-02-27 10:46:15 | 日記
 燦々と降り注ぐ陽光という形容詞がぴったりの今日の空である。

 気分がすっきり外向きになるから不思議だ。

 

 寒かったり曇り空だったり、ついでにみぞれ混じり等という風景だと気分まで内向きになってしまう。

 こうしてみると人間と云う奴は、けっこう気象や景色の見え方などで気分が左右される生き物だとわかる。

 熊本の地方紙で「草枕」が連載されていて毎日読んでいるが、毎日細切れに読む新聞は文庫本などと違って、読む量が限定される分、細部に亘って目が届き改めて気づくことも多い。

 

 文庫本は読んでいて、漱石が主人公の画工に言わせる考え方の講釈が小難しくて、ぶっ飛ばしながら読んだものだが、なにしろ僅かな分量の新聞連載なので細部を読んでしまう。

 今朝の掲載文の中で主人公が、非人情の世界を求めて旅に出たのに直ぐ俗世間の自分に戻ってしまうことを嘆いている場面があった。

 そう言えば山登りの山中や、寺社の境内で或いは葬儀の最中に着信音を響かせ、何かを台無しにしてしまう場面に何度も遭遇したことが思い出される。

 それはさて置いて、こうした喜・怒・哀・楽の場面に自分が居るときにそれを詩人は詩で、画家は絵でという手段で表現しようとする。

 ならば主人公は句という、十七字使ってその場の自分を詠んでみようと思いつく。

 例えば苦しみの涙も、その苦しみを詠むことで自分を客観視して喜びに替える事が出来るかもしれない。

 子規と交遊があり熊本で多くの句を詠んでいる漱石らしく主人公に漱石の思いを語らせている。

 私は、新聞紙上の歳時記だの、山花草木もろもろの句などを切り抜いてスクラップにしていたが、ついに先日大部分は断捨離の一環で処分した。

 しかしながら、漱石が熊本に赴任していた頃詠んだという句だけは処分せずに残している。

 今朝の新聞連載部分では「正一位 女に化けて朧月」という句を作って、狂句みたいだと主人公に言わせている。

 漱石の句は人を前面に出したぶんだけユーモアがあって川柳に近く、私は好きなのである。

 
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コメント
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