七月二日(金)曇り。帰国。
九時に起床。三日も同じ朝食だが、全く飽きないのは、やはりホテルのレベルが高いからだと思う。十一時のピックアップに備えて、荷造り。大して買い物などしていないのに、旅行カバンはパンパンである。
十一時に迎えの車が来る。ホテルのすぐ横にあるビルの一面がルイヴィトンのカバンのデザインとなっているので、そこで記念写真を撮った。
※ルイヴィトンのディスプレーをバックに。何やら、東洋一とのことです。
虹橋空港までは約三十分。メインの空港ではないので、ソウルの金浦空港に似ているような気がする。一時五十分のJAL082便で羽田に向う。さらば上海。
今回の上海の旅は、心に残る良い思い出となった。特に、社友でもあり、盟友の隠岐康氏には、格別のご高配を賜り、感謝この上もない。得がたい経験をしたと思っている。ただ、唯一残念だったのは、今回案内して頂いた上海のガイドは三人。二十代から四十代前半の人たちだったが、誰一人として、戦前の、いわゆる「オールド上海」の知識が皆無だったことだ。
例えば、戦前にヒットした、「上海ブルース」の中に歌われている「ガーデン・ブリッジ」は、現在は、外白渡橋と呼ばれているが、「ガーデンブリッジ」と言っても、全く分からないのだ。その橋を渡ったところにある、川島芳子や児玉先生など日本人や軍人、あるいは特務機関などが宿泊した「ブロードウェイ・マンション」は、上海大厦と言わなければ、分からない。また、上海の青幇のボスであった杜月笙の住居をホテルにした東湖賓館や何応欽将軍の住居跡など、チンプンカンプンだった。
※ライトアップされた、ガーデンブリッジとブロードウェイマンション。感激で胸が震えた。
※橋の袂にあるレリーフ。「外白渡橋(ガーデンブリッジ)1907年」とある。
かつてのフランス租界には、新天地といって、新しい上海のトレンディスポットとなっているが、「フランス租界」では、通じない。その他、「夢の四馬路」も、住所表記が変っていて、分からないと言う。早い話が、戦前の上海の知識が皆無に等しいのだ。これには、さすがにガッカリした。正直言って、その時代の建物や日本人の暮らしぶりの残っている所を見るのが、楽しみだったのに、その時代の事は、私の方が詳しいくらいなのだ。消化不良の感が否めなかった。
それでも、わずか四日間の滞在だったが、歩いてそれなりに土地勘もついたので、今度は、ガイドなどに頼らずに、地図を片手に、上海の町を散策してみたいと思っている。異国の地を心の通じ合う友と歩く。正に遊子残月に行く。謝々。
聞く所によれば、文化大革命以後に教育を受けた世代は、戦前の歴史は、ある意味で上海の「恥部」であり、ほとんど学ぶことがなかったという。ガイドとしては、そんな昔の事よりも、現在の発展した上海を見て欲しいと、言う所かもしれない。
六時過ぎに、四日ぶりにわが家着。家族に留守を詫びて、焼肉を食べに清水苑へ出かけたが、私は、サンチュサラダでひたすら「黒霧島」を飲んだ。