白雲去来

蜷川正大の日々是口実

春寂寥

2016-03-03 15:05:43 | 日記
二月二十二日(月)曇り。

一昨日、卒業式のことについて書いたが、今日は入学式のこと。寮歌が好きで、加藤登紀子さんが歌うCDを持っている。やはりユーチューブで知ったのだが、どくとるマンボウこと作家の北杜夫さんが卒業した旧制松本高校の思誠寮の寮歌「春寂寥」と言う歌がとても哀愁を帯びていて心に残った。旧制松本高校のことは、北杜夫さんの「どくとるマンボウ青春記」に詳しいので、興味のある方は是非お読みください。抱腹絶倒の青春記でとても楽しい。

余談ですが、平成二年に戦線復帰した直後に松本を旅したことがあった。松本城はもとより旧松本高校記念館や、川島浪速、芳子のお墓参りに行った。その旧制松本高校は後に信州大学となり、平成二十五年四月四日松本市総合体育館で行われた信州大学入学式の記念演奏で旧制松本高校 思誠寮 寮歌「春寂寥」が初めて歌われた。大学の交響楽団の演奏に合わせて混声合唱団とグリークラブが全四番までを歌い、続いて新­入生も含め出席者全員で一番を合唱した。新入生を含め、会場一体となっての大合唱、哀調と躍動感が溶け合った歌声は、多くの方の胸を熱くしました。と説明にあった。これは、昭和二十年の信州大学開校以来初めてのことであるという。

この「春寂寥」や旧制大阪高等学校の全寮歌「嗚呼黎明は近づけり」(ユーチューブで聞いてみて下さい)などの入ったCDが無いかと探している。調べていて驚いたのだが、「嗚呼黎明」は創価学会の会歌にもなっているそうだ。へぇー。ビツクリポンや。そう言えば、「白線流し」の時に歌われているのが、「巴城ケ丘別離の歌」だが、この歌が出来る前は、何と「蒙古放浪歌」を歌っていたそうだ。是非斐太高校の若い人たちに、もう一度「蒙古放浪歌」を歌って貰いたいものと思っている。

春寂寥(はるせきりょう)  大正九年

作詞 吉田実
作曲 浜徳太郎

【一】
春寂寥の洛陽に 昔を偲ぶ唐人の 傷(いた)める心今日は我 
小さき胸に懐きつつ 木の花陰にさすらへば あはれ悲し逝く春の
一片(ひとひら)毎に落(ち)る涙
【二】
岸辺の緑夏木立(こだち) 榎(えのき)葉陰のまどろみに 夕暮(ゆうぐれ)さそふ蜩(ひぐらし)の 
果敢(はか)なき運命(さだめ)呪ひては 命の流れ影あせて あはれ淋し水の面(も)に
黄昏そむる雲の色
【三】
秋揺落(ようらく)の風立ちて 今宵は結ぶ露の夢 さめては清し窓の月 
光をこふる虫の声 一息毎に巡り行く あはれ寒し村時雨(しぐれ)
落葉(おちば)のこころ人知るや
【四】
嵐は山に落ち果てぬ 静けき夜半(よわ)の雪崩(ゆきなだ)れ 榾(ほだ)の火赤くさゆらげば
身を打ち寄する白壁に 冬を昨日(きのう)の春の色 あわれ床(ゆか)し友どちが 
あかぬ団居(まどい)のもの語り

日本語は美しいなぁー。詩を読んでいるだけでじーんと来る。

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先輩の墓参。

2016-03-03 12:09:37 | 日記
二月二十一日(日)晴れ。

大したことのない私の人生だが、何回かターニング・ポイントがあった。その第一回目は、中学に入った時、近所の先輩に誘われて陸上部に入ったことだろう。それまでの私と言えば、どんくさい、ただのアホガキだった。勉強は中の下、走ることなど、あまり得意ではなかった。早い話が、どちらかと言えば運動神経の鈍い子供だった。

その私が、中学生になって陸上競技を始めることによって、全校で一番となり、それまで苦手だったもののすべてが克服できるようになったのだから、「努力」をするのもまんざらではないと思うようになった。特に、体育全般は、走ることが基本で、早く走ることが出来ると、それに付随して、ほとんどの種目が上達する。注目される喜びを知ったのも、陸上競技のお蔭である。

その私に陸上部入りを勧めてくれたのが二級上の山崎邦雄さんだった。山崎さんは、その後、理容師となり、しばらくはカタギの仕事をしていたが、何時しか伊勢佐木町はオデオン・ビルの前にあった「スタンド・ロック」というカウンターバーの店長として働くようになった。昭和五十年頃だろうか。私もこのお店には良く行ったものだ。最近知ったことだが、藤棚の「やまと」のご夫婦が結婚する前から通っていたと聞いて驚いたことがあった。この店にいたのが、幼馴染の水原広雅、現在は退職したがランドマークで支配人をしていた山崎雅夫の両氏。先ごろ弘明寺商店街で「花笠」を開店した尼野保氏も常連だった。民族派関係者も良く行くようになり、亡くなった板垣哲雄君や針谷大輔、清和崇の両氏などである。その山崎さんが体調を崩して亡くなられたのが平成十年のこと。享年五十歳だった。

命日の二月十六日の前後に、親しい人たちが毎年墓参を続けている。今日、集まったのは七名。お墓の前で好きだったワインやビールを捧げて手を合わした。その後、直会のために弘明寺商店街の中華料理屋へ。一時間ほど飲んで尼野保氏の「花笠」に転戦。八時過ぎに解散。

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白線流し。

2016-03-03 10:28:13 | 日記
二月二十日(土)曇り後雨。

卒業式の季節になると、思い浮かぶのが岐阜の斐太高校の卒業生が行う「白線流し」である。「白線流し」とは、斐太高校のホーム頁によれば、「例年3月1日の正午頃、卒業証書授与式後に行われる旧制中学以来の伝統行事。学校前 を流れる大八賀川をはさんで校舎側に在校生が、対岸には卒業生が思い出深い学び舎に向かって立ち、互いに惜別の歌「巴城ケ丘別離の歌」を歌いながら感慨にふけります。そのとき、卒業生らは制帽の白線とセーラー服のネクタイを1本に結び合わせて永遠の友情を誓いながら、早春の川面に3年間のなつかしい思いを込めて流すのです。白線は川を汚すことにならないように、下流で在校生の手によって拾い上げられます。約半世紀にわ たって続けられてきた伝統ある行事です。現在は、男女共学で、学帽の購入も自由になったため、男子の白線は入学時に生徒会からプレゼントされたものを使っています。

随分前に、この光景を映したユーチューブの動画を見てとても感動した。こういった伝統のある学校に在籍していた人たちがとても羨ましく思う。もっとも斐太高校と言うのは岐阜県屈指の進学校で、非情にレベルの高い高校とのこと。もし間違えて昔に戻ったとしても、そんな高校に入るのはとても無理な事。興味のある人は、是非ユーチューブで「白線流し」を検索してみて下さい。

知り合いの方から、ほうれん草を頂いた。いつも何気なく食べているこのほうれん草だが、漢字は「菠薐草」と書く。「菠薐」はペルシャの意味で、中国へは七世紀ごろペルシャから渡来した。日本では、ほうれん草の根が赤いことから「赤根菜、両花菜、歯根菜、鸚鵡菜」など、色々な異名がある。と「歳時記」にあった。頂いたほうれん草をさっと湯がいて、コンソメ、ニンニク、ごま油を混ぜてから白ごまを入れて、我が家風のナムルにした。ポパイのように精がつけば良いのだが。

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