二月二十七日(土)晴れ。
社友で赤羽の細田仙人から毎年年の瀬に送って頂く「日記帳」に、備忘録として、朝昼晩に何を食べたかや、その日の出来事を記録しておくのだが、深酒をした翌日などは、白紙になっている。酒と、老いが重なって一日前のことも思い出せずにいる。その反対に十年、二十年前のことが鮮明に思い出せるから不思議だ。
初めて、ホテルのバーへ行ったのは十八歳の時。ニューグランド・ホテルのバーのカウンターに座って、ハイボールをオーダーした。「ガキの来るところではない」と、目で語っても、口に出して言わないのが、一流ホテルの優しさだ。名物のバーテンさんから、「お兄いさん。ウイスキーをソーダーはもちろん、コーラやジンジャエールで割っても皆ハイボールなの。こう言う場所に来た時は、『ウイスキー・ソーダー』とオーダーし、更に、ウイスキーの銘柄も指定するのが、大人のしぐさ」と教えられた。
ニューグランド・ホテルのバーなど、当時、十八歳の私が気軽に出入りが出来るような所ではなかったが、格好良く酒を飲みたいばかりに、目一杯背伸びして通った。60年代のヨコハマには、おしゃれなバーやレストランが沢山あった。そのほとんどは、本牧や中華街、あるいはその周辺にあって、通った店の数だけ、飲み残しのビールのような思い出がある。日本大通りの元の県警本部のすぐ近くのビルの地下に「スリー・ネーション」というバーがあった。ジャズのバンドが入っていて、料理は、確か五百円のバイキング。カウンターには、船乗りをダンナに持つお姉さんよりはもう少し年増の女性が、器用にカクテルを作っていた。
一緒に行った彼女のために作ってくれたのが、木のカップに入った「ハワイコナ」。歌の文句ではないけれど、腕に錨の刺青をした太っちょの外人のオヤジがいた「コペンハーゲン」では、粋がって「ロンリコ151」を四杯飲んで、トイレで寝てしまい、彼女に逃げられた。
シーグラム・セブンのセブンアップ割りは「セブン・セブン」、コーラ割りは「セブン・コーク」。カナディアンクラブのコーラ割りは、「CCコーク」と教わったのは、本牧の「スターライト」のバーテンさん。北方謙三の小説で有名になる前から、中華街の「チョーズ・プレイス」で「ターキー・ソーダー」を飲んでいた。その店にいたバーテンダーのラッキーが、マリンタワーの裏でお店を始めた。私の顔を見ると、黙って「ターキー・ソーダー」を作ってくれたが、「最近、医者から糖質を控えろ、と言われている」と言うと、何処で知ったのか、笑って「黒霧島」のロックを出してくれるようになった。ヨコハマの人たちが集まるおしゃれなバーで焼酎もないものだが、言い訳は「血圧」と「血糖値」といえば、大概のことは許されるような歳になった。
たまに、ほとんどたまにだが、家にあるレミーのブランーを飲むとき、グラスの向こうにあの頃のヨコハマが甦る。桜木町の「サンダバード」、磯子の今思えば笑っちゃいそうなジャングルの「サファリ」、伊勢佐木町の「クール」、MUGENのJUNKOちゃんに連れて行って貰った南京町の「コルト45」や「レッドシューズ」、「ステーツ・サイド」。本牧の「ゴールデンカップ」、「スターライト」や「ベベ」。「リキシャルーム」の四角いピザ。みんな恐る恐る行った店ばかりだけれども、かけがえのない青春の思い出。
あーあ酔った。酔うと頭がタイムマシンになり、ヨコハマがアメリカだった頃に引き戻される。
社友で赤羽の細田仙人から毎年年の瀬に送って頂く「日記帳」に、備忘録として、朝昼晩に何を食べたかや、その日の出来事を記録しておくのだが、深酒をした翌日などは、白紙になっている。酒と、老いが重なって一日前のことも思い出せずにいる。その反対に十年、二十年前のことが鮮明に思い出せるから不思議だ。
初めて、ホテルのバーへ行ったのは十八歳の時。ニューグランド・ホテルのバーのカウンターに座って、ハイボールをオーダーした。「ガキの来るところではない」と、目で語っても、口に出して言わないのが、一流ホテルの優しさだ。名物のバーテンさんから、「お兄いさん。ウイスキーをソーダーはもちろん、コーラやジンジャエールで割っても皆ハイボールなの。こう言う場所に来た時は、『ウイスキー・ソーダー』とオーダーし、更に、ウイスキーの銘柄も指定するのが、大人のしぐさ」と教えられた。
ニューグランド・ホテルのバーなど、当時、十八歳の私が気軽に出入りが出来るような所ではなかったが、格好良く酒を飲みたいばかりに、目一杯背伸びして通った。60年代のヨコハマには、おしゃれなバーやレストランが沢山あった。そのほとんどは、本牧や中華街、あるいはその周辺にあって、通った店の数だけ、飲み残しのビールのような思い出がある。日本大通りの元の県警本部のすぐ近くのビルの地下に「スリー・ネーション」というバーがあった。ジャズのバンドが入っていて、料理は、確か五百円のバイキング。カウンターには、船乗りをダンナに持つお姉さんよりはもう少し年増の女性が、器用にカクテルを作っていた。
一緒に行った彼女のために作ってくれたのが、木のカップに入った「ハワイコナ」。歌の文句ではないけれど、腕に錨の刺青をした太っちょの外人のオヤジがいた「コペンハーゲン」では、粋がって「ロンリコ151」を四杯飲んで、トイレで寝てしまい、彼女に逃げられた。
シーグラム・セブンのセブンアップ割りは「セブン・セブン」、コーラ割りは「セブン・コーク」。カナディアンクラブのコーラ割りは、「CCコーク」と教わったのは、本牧の「スターライト」のバーテンさん。北方謙三の小説で有名になる前から、中華街の「チョーズ・プレイス」で「ターキー・ソーダー」を飲んでいた。その店にいたバーテンダーのラッキーが、マリンタワーの裏でお店を始めた。私の顔を見ると、黙って「ターキー・ソーダー」を作ってくれたが、「最近、医者から糖質を控えろ、と言われている」と言うと、何処で知ったのか、笑って「黒霧島」のロックを出してくれるようになった。ヨコハマの人たちが集まるおしゃれなバーで焼酎もないものだが、言い訳は「血圧」と「血糖値」といえば、大概のことは許されるような歳になった。
たまに、ほとんどたまにだが、家にあるレミーのブランーを飲むとき、グラスの向こうにあの頃のヨコハマが甦る。桜木町の「サンダバード」、磯子の今思えば笑っちゃいそうなジャングルの「サファリ」、伊勢佐木町の「クール」、MUGENのJUNKOちゃんに連れて行って貰った南京町の「コルト45」や「レッドシューズ」、「ステーツ・サイド」。本牧の「ゴールデンカップ」、「スターライト」や「ベベ」。「リキシャルーム」の四角いピザ。みんな恐る恐る行った店ばかりだけれども、かけがえのない青春の思い出。
あーあ酔った。酔うと頭がタイムマシンになり、ヨコハマがアメリカだった頃に引き戻される。