白雲去来

蜷川正大の日々是口実

あの頃ヨコハマ。

2016-03-06 22:11:32 | 日記
二月二十七日(土)晴れ。

社友で赤羽の細田仙人から毎年年の瀬に送って頂く「日記帳」に、備忘録として、朝昼晩に何を食べたかや、その日の出来事を記録しておくのだが、深酒をした翌日などは、白紙になっている。酒と、老いが重なって一日前のことも思い出せずにいる。その反対に十年、二十年前のことが鮮明に思い出せるから不思議だ。

初めて、ホテルのバーへ行ったのは十八歳の時。ニューグランド・ホテルのバーのカウンターに座って、ハイボールをオーダーした。「ガキの来るところではない」と、目で語っても、口に出して言わないのが、一流ホテルの優しさだ。名物のバーテンさんから、「お兄いさん。ウイスキーをソーダーはもちろん、コーラやジンジャエールで割っても皆ハイボールなの。こう言う場所に来た時は、『ウイスキー・ソーダー』とオーダーし、更に、ウイスキーの銘柄も指定するのが、大人のしぐさ」と教えられた。

ニューグランド・ホテルのバーなど、当時、十八歳の私が気軽に出入りが出来るような所ではなかったが、格好良く酒を飲みたいばかりに、目一杯背伸びして通った。60年代のヨコハマには、おしゃれなバーやレストランが沢山あった。そのほとんどは、本牧や中華街、あるいはその周辺にあって、通った店の数だけ、飲み残しのビールのような思い出がある。日本大通りの元の県警本部のすぐ近くのビルの地下に「スリー・ネーション」というバーがあった。ジャズのバンドが入っていて、料理は、確か五百円のバイキング。カウンターには、船乗りをダンナに持つお姉さんよりはもう少し年増の女性が、器用にカクテルを作っていた。

一緒に行った彼女のために作ってくれたのが、木のカップに入った「ハワイコナ」。歌の文句ではないけれど、腕に錨の刺青をした太っちょの外人のオヤジがいた「コペンハーゲン」では、粋がって「ロンリコ151」を四杯飲んで、トイレで寝てしまい、彼女に逃げられた。

シーグラム・セブンのセブンアップ割りは「セブン・セブン」、コーラ割りは「セブン・コーク」。カナディアンクラブのコーラ割りは、「CCコーク」と教わったのは、本牧の「スターライト」のバーテンさん。北方謙三の小説で有名になる前から、中華街の「チョーズ・プレイス」で「ターキー・ソーダー」を飲んでいた。その店にいたバーテンダーのラッキーが、マリンタワーの裏でお店を始めた。私の顔を見ると、黙って「ターキー・ソーダー」を作ってくれたが、「最近、医者から糖質を控えろ、と言われている」と言うと、何処で知ったのか、笑って「黒霧島」のロックを出してくれるようになった。ヨコハマの人たちが集まるおしゃれなバーで焼酎もないものだが、言い訳は「血圧」と「血糖値」といえば、大概のことは許されるような歳になった。

たまに、ほとんどたまにだが、家にあるレミーのブランーを飲むとき、グラスの向こうにあの頃のヨコハマが甦る。桜木町の「サンダバード」、磯子の今思えば笑っちゃいそうなジャングルの「サファリ」、伊勢佐木町の「クール」、MUGENのJUNKOちゃんに連れて行って貰った南京町の「コルト45」や「レッドシューズ」、「ステーツ・サイド」。本牧の「ゴールデンカップ」、「スターライト」や「ベベ」。「リキシャルーム」の四角いピザ。みんな恐る恐る行った店ばかりだけれども、かけがえのない青春の思い出。

あーあ酔った。酔うと頭がタイムマシンになり、ヨコハマがアメリカだった頃に引き戻される。 

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二・二六事件の日かぁー。

2016-03-06 22:03:21 | 日記
二月二十六日(金)晴れ。

今日は、昭和十一年に起こった、いわゆる二・二六事件から八十年目の日。野村先生の獄中句「銀河蒼茫」の中に、「二・二六の今年は獄のほそ霙」がある。二・二六事件に関する本は随分と読んだ。その中で、印象に残っているものと言えば、末松太平の「私の昭和史」、大蔵栄一の「二・二六事件への挽歌」、立野信之の「叛乱」、河野司の「湯河原襲撃」などであろうか。

一時期、二・二六事件関係の本を片っ端から集め読んでいたが、きりがないので、この十年ぐらいはほとんど新刊を読んでいない。その昔、古書店で、事件に関係した青年将校たちの遺墨を集めた「霊の国家」(だったか?)という本を買った時には、とても興奮した。その後、青年将校だけではなく一般の兵隊にスポットを当てた「二・二六事件と郷土兵」などという本も出版され、これも興味深く読んだ。しかし、いくら読んでも事件の本質は動くことはなく、あとはどう評価するのかや決起した人たちの個人的な人間関係、エピソードにいかに関心を持つかということに尽きるのではないか。最も、私は、研究家ではないので、事件の精神を少しでも理解し受け継ごうとするだけだ。

この運動に入った頃に、何かの本で栗原安秀中尉が刑死された後に、横浜は、天王町の近くにあるお寺のお墓に埋葬された。と読んだので、探しに行ったことがあった。やっとのことでお寺を探し当てて、ご住職にお話を伺ったら、すでに墓所を移したとのこと。(ご住職は賢宗寺のことは知らなかったようだ)。その後、賢宗寺のことを知り、一人でお参りに行った。お寺の近くにあった古書店に入ったら「パール判決書」があり買って来たことを覚えている。

昨日、事務所に行った折に、そのことを思い出して取り出してみたら、巻末の余白に「2200円」の定価があり、私が昭和四十八年に買ったと汚い字で書いてあった。若い頃の不勉強が思い出され我ながら恥ずかしかった。

夜は、我が酔狂亭で月下独酌。肴は、湯豆腐、アコウダイの粕漬、さつま揚げ。酔えば、来し方の反省しきり。





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