二月二十四日(水)曇り。
昨日、たいして飲んだわけでもないのに、起きられず時計を見たら九時を過ぎていた。ぼやーっとしていても誰からも怒られるわけではないが、精神が堕落することだけには注意しなければならない。朝方ウトウトしていたら子供のころの夢を見た。いつもどんな夢を見たかなど断片的な記憶しかなく、すぐ忘れてしまうのだが、今朝のものは子供のころに遊んだ「赤門の寺」や当時住んでいたアパートの年上の姉妹のことが、物語のようになって記憶に残った。そう言えば、夢を日記に記録していると言う人がいることを何かで読んだことがある。それはそれで大したものだ。
人は、果たして何歳ぐらいからの記憶があるのだろうか。小学校に入る前の断片的な記憶はあるが、それが幾つの頃かといった正確なことは憶えていない。今のように、幼い頃からの写真でもあれば、記憶が甦ることもあろうが、残念ながら、私たちの時代は、誰もがカメラを持って気軽に写真を撮れる時代ではなかった。七五三や小学校の入学祝いの写真などは、写真館で撮ったものだった。
私の中で、最も古い記憶と言うものは、オムツをして貰うときのボタンを留める感触である。オムツを宛がわれるお尻の感触とボタンを留める「プチッ」という感触がなぜか記憶に残っているのである。
私が生まれたのは、戦後麻薬取り引きの巣窟として、全国に悪名のとどろいた京浜急行の黄金町駅と、東京裁判によって死刑になった東条英機等戦争指導者の遺体を荼毘に付した久保山火葬場のちょうど中間にある典型的な下町である。しかし、学校の友達の家に遊びにいったときなど、そこの親から「家はどの辺」と聞かれると、子供心に「黄金町駅の近く」とは言いがたく、隣町の名前を言うのが常だった。その町のアパートに小学校を卒業するまで母と二人で住んでいた。
家から電車道をひとつ隔てたところには、トンボ取りやかくれんぼをして遊んだ、「赤門」と呼んでいたお寺があった。
そのお寺が、「東福寺」という名前である事を知ったのは、随分と後のことである。東福寺が七百年もの伝統があり、文明年間に太田道灌によって中興されたといわれる古刹であることや、更に、ヨコハマにおける一代の女傑富貴楼お倉(斎藤くら)や長谷川伸一家の墓所などがあり、「地獄極楽の大幅」で有名である事を、大佛次郎や獅子文六、吉川英治といったヨコハマ生れの作家の小説や随筆で知った。鞍馬天狗のマネをしてチャンバラごっこに興じていた子供の頃、まさかその作者である大佛次郎が赤門の近くの生まれである事など知る由もなかった。ちなみに野村先生のご尊父のお墓もこのお寺にあり、お墓の横には野村先生の「昂然と行くべし 冬の銀河の世」の句碑がある。
夏になると、ほとんど毎日のように野毛山にある市民プールに通ったが、そのプールに行くには赤門の前を通って、通称「キンショウカン」と呼んでいた池のある広場の横を通り、旅館や料亭の多い細い坂道を行き、「百段」と呼んでいた急な階段を上がって行くのが一番近道だった。この付近の風景が大佛次郎の随筆「オルゴール」や獅子文六の自伝小説である「父の乳」などの中に描かれている。※写真は、東福寺にある野村先生の句碑
昨日、たいして飲んだわけでもないのに、起きられず時計を見たら九時を過ぎていた。ぼやーっとしていても誰からも怒られるわけではないが、精神が堕落することだけには注意しなければならない。朝方ウトウトしていたら子供のころの夢を見た。いつもどんな夢を見たかなど断片的な記憶しかなく、すぐ忘れてしまうのだが、今朝のものは子供のころに遊んだ「赤門の寺」や当時住んでいたアパートの年上の姉妹のことが、物語のようになって記憶に残った。そう言えば、夢を日記に記録していると言う人がいることを何かで読んだことがある。それはそれで大したものだ。
人は、果たして何歳ぐらいからの記憶があるのだろうか。小学校に入る前の断片的な記憶はあるが、それが幾つの頃かといった正確なことは憶えていない。今のように、幼い頃からの写真でもあれば、記憶が甦ることもあろうが、残念ながら、私たちの時代は、誰もがカメラを持って気軽に写真を撮れる時代ではなかった。七五三や小学校の入学祝いの写真などは、写真館で撮ったものだった。
私の中で、最も古い記憶と言うものは、オムツをして貰うときのボタンを留める感触である。オムツを宛がわれるお尻の感触とボタンを留める「プチッ」という感触がなぜか記憶に残っているのである。
私が生まれたのは、戦後麻薬取り引きの巣窟として、全国に悪名のとどろいた京浜急行の黄金町駅と、東京裁判によって死刑になった東条英機等戦争指導者の遺体を荼毘に付した久保山火葬場のちょうど中間にある典型的な下町である。しかし、学校の友達の家に遊びにいったときなど、そこの親から「家はどの辺」と聞かれると、子供心に「黄金町駅の近く」とは言いがたく、隣町の名前を言うのが常だった。その町のアパートに小学校を卒業するまで母と二人で住んでいた。
家から電車道をひとつ隔てたところには、トンボ取りやかくれんぼをして遊んだ、「赤門」と呼んでいたお寺があった。
そのお寺が、「東福寺」という名前である事を知ったのは、随分と後のことである。東福寺が七百年もの伝統があり、文明年間に太田道灌によって中興されたといわれる古刹であることや、更に、ヨコハマにおける一代の女傑富貴楼お倉(斎藤くら)や長谷川伸一家の墓所などがあり、「地獄極楽の大幅」で有名である事を、大佛次郎や獅子文六、吉川英治といったヨコハマ生れの作家の小説や随筆で知った。鞍馬天狗のマネをしてチャンバラごっこに興じていた子供の頃、まさかその作者である大佛次郎が赤門の近くの生まれである事など知る由もなかった。ちなみに野村先生のご尊父のお墓もこのお寺にあり、お墓の横には野村先生の「昂然と行くべし 冬の銀河の世」の句碑がある。
夏になると、ほとんど毎日のように野毛山にある市民プールに通ったが、そのプールに行くには赤門の前を通って、通称「キンショウカン」と呼んでいた池のある広場の横を通り、旅館や料亭の多い細い坂道を行き、「百段」と呼んでいた急な階段を上がって行くのが一番近道だった。この付近の風景が大佛次郎の随筆「オルゴール」や獅子文六の自伝小説である「父の乳」などの中に描かれている。※写真は、東福寺にある野村先生の句碑