白雲去来

蜷川正大の日々是口実

少子高齢化と松方正義。

2016-04-10 11:21:47 | 日記
四月九日(土)晴れ。

いやはや、昨夜、うっかりして午前様になったせいか、目が覚めて時計を見たら何と十一時を過ぎていた。まったく何の生産性もない日々を送っているのに、こんなことでは、世間様に申し訳ない。右手をテーブルにつき、うなだれながら「反省」のポーズをとってしばし瞑想。と言うのは嘘で、お腹が空いたので慌てて朝食の支度。まったく家族は私が起こさなければ、これ幸いと二階から降りてこない。

朝食と言おうか、昼食を済ませて、片づけをしたらもう一時半。一日が無駄になるなぁー。としみじみと思う。仕方がないか、昨夜は「こりゃ、こりゃ」の連続だったし、遅くまで寝ている方が悪い。最近、少し飲むと腰の上、と言おうか背中の右端が痛いのである。気になって、マリアンナ病院でCT、超音波、内視鏡の検査をしたが、異常は見当たらなかった。それでも気になるので、十四日にかかりつけの病院で胃カメラの検査をする。しばらく禁酒を言い渡されるのが怖い私であります。

テレビで、我が国の少子高齢化が止まらないと言っていた。出産の数も年々減っているそうで四年連続して人口が減少しているとのこと。でもこんなに狭い日本に一億を超す人が必要なのだろうかと思う時がある。日露戦争当時の日本の人口は、四千六百万人だったそうだ。大東亜戦争の開戦の昭和十六年は、七千二百万人。そして昨年度の統計では、一億二七〇八万人。多いのか、少ないのか、両手の指を超える数字には、ほとんど無知な私には、分かりません。

明治の政治家で、松方正義という人がいた。明治十四年(一八八一)十月、大蔵卿に就任して以来、通算十四年七ヵ月の長期にわたって大蔵卿、蔵相として国家財政を担当し、この間二回、内閣総理大臣となっている。明治期に極度に逼迫していた財政を建て直し、経済発展に貢献した「財政の神様」であった。

その松方の経済手腕と同時に、語られるのが「子沢山」である。ある時、宮中で元勲たちと会議後の酒席で、明治天皇が西郷従道内相に、「松方は男の子と女の子が何人ずついるのか」とご下問になった。すると西郷は「まことに恐れ入りますが、ソロバンをお貸し頂けませんでしょうか・・・」と答えた。明治天皇はもとより、周りの元勲たちも大笑いをしたそうだ。これが「ソロバン問答」といわれ、松方を語る時に決まってでるエピソードとなっている。

その後も、明治天皇から「そのほうの子供は幾人あるのか」とたずねられた。すると松方は、指を折って数えながら、途中でやめて、「いずれ取り調べて奏上いたします」。

松方の子供の数には、諸説があるが二十四、五人はいたと言われている。その子供や孫たちからは政財界で活躍した人が多くいる。親日的で有名だった、ライシャワー元駐日大使の奥さんのハルや、「西安事件」をスクープした国際ジャーナリストの松本重治、福田内閣の対外経済担当大臣にもなった牛場信彦などである。(『痛快無比!ニッポン超人図鑑』前坂俊之著・新人物文庫)

日本の政治家も、時には松方正義を見習わなければならないかもね。その時は、多少の側室の存在などに目くじらを立てないことだ。

  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

お付き合いでモノマネを見た。

2016-04-10 10:24:09 | 日記
四月八日(金)晴れ。

どんなことをやる芸人なのか、良く知らないが、「世界の果てまでイッテQ」とかいう番組をたまに見ることがある。そこに世界の様々なお祭りに挑戦する宮川大好というタレント?、芸人がいて、その彼が横浜の紅灯の巷である関内に弟子?を連れて、お店を回る。と言うことで、動員要因として馴染みの店に行くことになった。

サリーズバーで八時に待ち合わせなのだが、それまでやることもないので、六時前に家を出て、「やまと」で、仲良しのカメちゃんを呼び出して、軽く一杯。最初はそう思ったが、二人で二合瓶を二本空けてしまい、あれれれと慌てて関内へ。

サリーの店には、幼馴染やお世話になっている方など四人が合流した。男同士で飲んでいてもつまらないので、お笑いのショーの入るお店へと転戦。いい感じで酔っていると、いきなりモノマネが始まった。似ているのか似ていないのか、良く分からなかったが、残念なのは、出てくる芸人に「華」がないのである。芸人と言うオーラが全く感じられない。失礼ながら素人に毛の生えたような人たちばかりだった。まあ特別なチャージがある訳でもなく「投げ銭」だけだから文句の言えた義理ではないのだが。

最後に、宮川大好が挨拶に来たが、やはりテレビによく出ていることもあり、存在感があった。若手の芸人も、頑張ってほしいものだ。その後、久しぶりに本牧のゴールデンカップへ転戦。ここに来たのは、まだ私が十代の頃。お店にはアメリカの兵隊で溢れていた。そんな喧騒の夜は過去の話。今は、私たちと同輩の皆さんがカラオケに興じていた。私の友人が、このお店の経営に関わり、その方のお付き合いで行った。いずれお店を貸し切ってパーティーでもやってみたいと思っている。

  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする