白雲去来

蜷川正大の日々是口実

行く春を惜しむか。

2021-05-01 13:00:00 | 日記

4月28日(水)曇り。

朝食は、昨日に続き、サバのみりん干し、キュウリのお新香、ほうれん草の味噌汁。昼は、ドーナツ二個。夜は、カツオとぶりの刺身。新タマネギとキムチのオイスターソース炒め。お供は「霧島連山」。手紙を書くときの文章に詰まったとき、原稿の文面が浮かばなかったときに、手にするのが漢詩や歳時記のなどの本である。山本健吉の『ことばの歳時記』(文藝春秋)に以下のようなものがあって、勉強になった。少々長いけれど引用します。

古くから和歌や詩の題に、三月尽、九月尽という言葉があって、古今六帖、夫木抄、和漢朗詠集などには、詠題として挙げられている。だが、この言葉をそのまま詠みこむのでなくて、春、秋の暮れて行く季節を詠むのであり、三月尽ならば、春の暮、行く春、春を惜しむ、春の行方、春の泊、春の湊、春の名残、今日のみの春、翌なき春など、暮春を意味する言葉を入れている。つまり。暮春の歌を総括して。三月尽の題名を与えたのである。

尽というのは尽日であり、三十日のことである。厳密に言えば。明日は立夏(あるいは立冬)になる果ての日ということになる。なぜとくに、三月尽と九月尽だけが歌われるのかと言えば、春と秋という好季節だけが。その過ぎて行くのを惜しむに価するからである。行く春、行く秋とは言うが、行く夏、行く冬とは言わない。同じく、春を惜しむ、秋を惜しむとは言うが、夏を惜しむとは言わなかった。冬を惜しむは、年を惜しむという意味で、使った。旧暦では、年の終りが冬の終りだからだ。

行く春を惜しむか。いい表現だ。日本語は美しい。すぐ月が変わってしまう。遅れ遅れにならないようにブログを三日分更新した。

 


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