五月十七日(月)晴れ。
夏を思わせるような良い天気。出かけるのに、ウインドブレーカーを着ていったら、暑くてマイッタ。午前中は、病院へ。血圧が安定してきたので、飲んでいる薬の量が減った。
午後から事務所へ。毎日、毎日良くこれだけ雑用があるのかと、嫌になるほど忙しい。手紙を書いたり、頼まれた原稿や連載原稿、更に雑誌の編集・・・。資料の整理など、勤め人でないから時間に拘束されることは余りないが、気ぜわしくて参ってしまう。
さて、大変尾篭な例えで恐縮だが、諺に、「目くそ、鼻くそを笑う」というものがある。説明の必要もないだろうが、早い話が、「自分の欠点には気がつかず、他人の欠点をあざ笑うことの例えである。また、あざ笑う者も、笑われる者も大した違いはない、ということだ。
なぜこんなことを書くのかと言えば、産経新聞に、先ごろ病気を理由に政界の引退を表明した、参議院のドンと呼ばれた青木幹夫の後任候補に、秘書であり、長男の一彦氏(四十九)を後継候補に決めたことを、河野太郎が批判した、という記事があった。
河野太郎は、「長男を擁立することは世襲であり、なぜ公募を行わなかったのか」と批判しているという。聡明な読者の方には、お分かりかと思うが、「世襲」と言えば、河野太郎ほど、世襲と呼ぶに相応しい政治家はいない。更に、河野の親や祖父は、世襲の上に「売国奴」というおまけまでつく。祖父は金権政治の権化、父は、支那の協力者であったことは、今や定説で、知らぬ者はいない。
パソコンで、祖父、河野一郎の事を調べていたら、面白い記述があった。
昭和三十八年七月、憂国道志会の野村秋介により自宅に放火される。その日は名神高速道路の開通日で河野はその開通式典でくす玉を引いている。三木武夫が大磯の吉田茂の自邸に招かれた際、応接間から庭で吉田が笑っていた様子が見え「随分ご機嫌ですね」とたずねると「三木君は知らんのか! 今、河野の家が燃えてるんだよ!」とはしゃいでいた。「罰が当った」と吉田周辺はささやいたと言う。
本当かどうかは分からないが、吉田茂の高笑いが聞こえてきそうだ。河野太郎が、「世襲」を批判するならば、自らが、議員の資格を返上し、神奈川県以外の所から、再び、衆議院に挑戦してみればいい。しかし、こういった世襲議員を当選させるのは、有権者と言う国民なのだからやるせない。
夜は、おとなしく、「黒霧島」をロックで三杯だけ飲んで寝た。