白雲去来

蜷川正大の日々是口実

陸軍少佐だって怖いかもしれない。

2015-03-26 18:14:18 | 日記
三月二十五日(水)晴れ。

横浜はまだ桜が咲かない。下町の弘明寺の近くから桜木町の近くまで大岡川に沿って桜並木が続いている。この時期はその桜を眺めつつ散歩するのが常となっている。もう十年ほど前から同じ場所で家族で写真を撮っている。幼稚園、小学校、中学、高校、そして来月から上の子供は大学生となる。私にとって桜はそのまま家族の記録であり、子供たちの成長の記録でもある。

二人とも春休みということもあって当然ながら毎日家にいる。普段は子供二人を連れて出かけることなどあまりないので、子供の意思などを無視して毎日どこかに連れて行っている。といっても事務所の往復であったり、伊勢佐木町へ行ったりと近場ばかりなのだが、それはそれで楽しんでいる。必ず寄る所は有隣堂やブックオフ。下の子供はあまりれ読書好きではないが、上の子は今幕末、それも新選組にハマっている。私の書棚から本を探しては持って行くので少々うんざりしているが、正直言って嬉しい悲鳴でもある。

禁酒をしてからやっと三日目。随分と長いような気がする。酒がない食事というものはこんなに早く終わってしまうのかと寂しくもある。好きな肴をつまみにのんびりとしているのが至福の時なのにそれを禁じられている。それもあと四日か。長いなぁー。

夜は、松本佳展君と小枝さんご夫妻が来訪。来月から大学生となる子供に小枝さんがプロ仕様のお化粧を伝授しに来てくれた。こちらは嬉しいやら、寂しいやら複雑な気持ちである。お二人を交えて社友の堀芳康さんからご恵送頂いた「混ぜご飯の素」を使って炊いたご飯で夕食を共にした。飲んでいるのは愚妻と小枝さんだけ。運転の松本君と私はそれを横目で見ながら・・・・。来週は飲むぞっと。

『週刊新潮』の記事でチュニジアの博物館でテロに遭遇した女性が自衛官、それも陸自の三佐と知って正直言って驚いた。もちろん親子で大けがをされたことには同情の念を禁じ得ないが、三佐と言えば、かつての兵隊さんの位で言えば陸軍少佐である。いくら医務官と言えども、あれが陸軍少佐の所作か・・・。と批判されても気の毒だが仕方あるまい。もし将来医務官として戦地に出たならばどうするのか。いいや批判はやめましょう。もし自分がそういう目に遭遇したならば、人から後ろ指を指されないような態度でいられるのだろうか。こんな平和な国に暮らしていて、旅行に出て死に直面するなどと誰が想像できようか。戦地に行くのならば、それなりの覚悟もあるだろうが、全く死を意識しない時に突然危険な目に合う。人を批判することよりも自分だったらどうするかを心して考えてみたいと思う。

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彼岸生まれは運がいい。

2015-03-24 18:11:42 | 日記
三月二十四日(火)晴れ。

彼岸は一年の内で昼と夜との長さが等しい時期で、春分にあたる三月二十一日を中日とした前後三日間、通じで七日間を言う。何かの根拠がある訳ではないが、私が幼い頃、母から「お前はお彼岸の生まれだから運が強い」といつも聞かされていた。考えてみれば、この歳になるまで、とりあえず何となく生きて来れたのも「運の強さ」かもしれない。そう楽観的に意識しなければ、浪人生活は続けられない。

私の事務所(二十一世紀書院)は、通称横浜の山手地区にある。すぐ近くには米軍住宅地があり今でも日本人の立ち入りが制限されている。事務所の前の三十メートルくらいの坂は「蛇坂」。かつては細い山道で、途中に清水がわき,蛇を多く見かけたことから名付けられたらしい。現在は両側にマンションが建ち、一四九段の階段の坂に変わっており、蛇の脱け殻もみることはできない。(「横浜橋めぐり坂あるき」より) その坂を登り切った所にあるのが増徳院というお寺。増徳院は高野山真言宗の仏教寺院。 準別格本山で、海龍山本泉寺増徳院と号する。もとは元町一丁目(元町プラザの一角)にあり、現在の横浜外国人墓地は境内墓地であった。関東大震災で焼失し現在の場所に移転した。そのお寺の境内に戦前・戦後を通じて活躍した横浜生まれの俳人の大野林火の「彼岸鐘 草木聞けり 鳥聞けり」という句碑がある。ちなみに港の見える丘公園のすぐ脇のフランス山にも林火の「白き巨船来たれり 春も遠からず」の句碑がある。

春の彼岸になると、母の「お前は運が強い」との言葉と日ノ出町に生まれた大野林火の句を思い出す。

午後から上の子供を連れて事務所に寄り、帰りに伊勢佐木町の入り口にあるインドカレーの店「モハン」で遅い昼食をとった。ここの「ナン」が好きである。食後はイセブラ。今週は禁酒をしているので楽しみは食事しかない。酒が入っていなくとも歳のせいか十時過ぎには眠くなる。

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前期高齢者の一日。

2015-03-24 10:47:00 | 日記
三月二十三日(月)晴れ。

朝食後に、上の子供が友達と鎌倉に行くと言うので保土ヶ谷駅まで送って行った。そうかこの時期の鎌倉もいいかなと思ったが、ノコノコついて行く訳には行かない。鎌倉の駅で高校の同級生と待ち合わせていると言うが、素人だなと思った。私なら、東海道線に乗り換えて藤沢まで行き、そこから江ノ電に乗って行く。江ノ電は、好きな電車である。路面電車のように軌道敷を走ったり、人の敷地の中を、そして海岸沿いをと車窓から眺める景色が楽しいのである。

もう一つのコースは鎌倉の一つ手前の北鎌倉で降りて、八幡宮まで歩く。途中、明月院や円覚寺、建長寺などのお寺を訪ねながらの散歩は心が洗われる。建長寺には、人間爆弾で有名な「桜花」で特攻出撃して行った海軍神雷部隊の慰霊碑がある。以前社友会の皆さんを案内したことがあった。座禅会が行われている時などは時折警策の音などが聞こえ身が引き締まる。八幡宮にお参りしてからは小町通りでお店をひやかす。そう言えば和紙の専門店をやっている菊岡ノンコさんとも久しくお会いしていない。紫陽花の季節も良いが早咲きの桜を愛でながらの散策も良い。禁酒が明けたら行ってみるか。

久しぶりに一人の家である。前期高齢者の一日は、まず大好きな朝食作りから始まる。今朝のおかずは、筋子、明太子、豆腐の味噌汁。良いなぁー。食後は、お仏壇と先生の遺影の前のお花と水を換えて手を合わせる。好きなコーヒーを淹れてから朝刊を丹念に読む。次はパソコンを開いてメールのチェック。そして「お気に入り」のブログを読む。私の「お気に入り」は「特定非営利法人五仁會」の竹垣悟氏のブログ、「爆ちゃん吼える」、「行雲流水の如く」、「大きな花を咲かせるよりも」、「北面武士」といったお堅いものから地元の食案内までそれぞれである。そしてフェイスブックを確認すると大体十一時近い。それから、よっこらしょっと事務所に行き、大した金にもならない原稿を書いたり、資料を整理したりと非生産的な仕事に従事する。五時ごろになれば、そわそわして晩酌の肴を求めて魚屋放浪が始まる。

七時に、家族全員で食卓を囲む。子供たちが食事を終えてもダラダラと酒を飲み、そのまま寝てしまい。子供たちに怒られながら布団に入る。というグータラな日々をもう何十年も繰り返し、目が覚めれば「反省」の日々を繰り返している。

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お墓参り。

2015-03-24 09:31:49 | 日記
三月二十二日(日)晴れ。

昨日は私の六十四歳の誕生日だった。特別な感慨はないが、この歳になると祝う気持ちよりも「冥土の旅の一里塚」という感が強い。これまで特別に誇るべきことも、記憶にも記録にも残ることのない、その他大勢の塵の中の一人として何とかここまで生きて来たが、それはそれで良しとしなければならない。そんな思いを持ちながら、伊勢原へと向かった。

伊勢原の古刹、浄発願寺は丹沢大山国定公園にある。近くには大山阿夫利神社などがありハイキングコースとして有名である。秋には彼岸花の群生地として訪れる人が多い。野村先生が、なぜこの地のお寺にお墓を建てたのか・・・。そのいきさつは遺著となった『さらば群青』に詳しい。いつもなら一時間もかからずに着くのだが、東名高速の玉突き事故の影響で二時間以上も渋滞にはまった。イライラするよりも、早く家を出ていたら、その事故に巻き込まれていたかも知れず、渋滞ぐらいは我慢しようと思えるのは歳のせいか、それとも彼岸のせいかもしれない。

昨日、大悲会の志村馨君ら若い人たちが墓参を兼ねてお墓掃除をしてくれたので、お墓はとてもきれいになっていた。偶然に野村先生の奥様とお会いしたらしい。お礼のメールが入っていた。志村君たちは、毎月欠かさず墓掃除を行っている。野村先生が亡くなられてからだからもう二十年以上も毎月行っているのだ。簡単なようで中々出来ることではない。先生のお墓に詣でてから、私の両親のお墓へ行き、子供の大学の合格を報告した。蜷川家の墓は本来母の郷里である富山県は滑川の「浜の御坊」の名で知られている稱永寺にある。そこのご住職は、私と同じ蜷川さん。お寺の門前には「蜷川家由来の碑」が立っている。遠方であるので野村先生と同じお寺にお墓を作った。ご住職がご厚意で、造成したばかりの見晴らしの良い所にどうですか。と勧めてくれたが、恩師を見下ろす場所にお墓を建てる訳には行かず、先生のお墓の下方の目立たない場所にして頂いた。私に何かあっても、一門の若い人が一度で済むので丁度良い。帰りは、まだ東名が混んでいると言うので、茅ヶ崎経由で帰ったが、桜をほとんど見なかった。

今日から一週間禁酒をしなければならない。酒を飲まない人にとっては、たかが一週間のがまんぐらいで何を言ってんだか。と思うかもしれないが、酒を飲むなと言うのは、私にとって息をするなと言うのと同義語である。別段威張ることではないのだが、私には趣味と言うものがほとんどない。いわゆる競輪、競馬、パチンコ、麻雀、ゴルフをやらない。一時はクロダイ釣りに凝ったことがあったが、今は竿もリールも宝の持ち腐れとなっている。それで酒を止められたなら仙人のようになってしまう。どうせ仙人ならば、酒仙の方が良い。ピロリ菌の除菌に失敗し、二回目の除菌を行っている。前回は、ナメて酒と一緒に薬を服用した。結果は言うまでもない。まあ旨い酒を飲むために一週間ぐらいは酒を抜こうと頑張っている。

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静岡へ。人とおでんに酔った。

2015-03-23 14:00:34 | 日記
三月二十一日(土)曇り。春分の日。

今日は私の誕生日である。早生まれであるから同級の人よりも一歳若い。学生の頃はこの一歳若いということが嫌だったが、今は有難い。思えば六十四歳になった自分と言うものを若い頃は想像もつかなかった。もちろんこの思いは私だけではないだろう。自分だけは若いつもりでいるが、完全に体も頭も傷んできている。たまに調子が悪くて病院へ行けば、そのほとんどが「加齢」のせいにされる。「じゃあ金のないのも歳のせいかよ」と医者に言って見たくもなる。

まあこれまでに、喉や胃、そして頭と危ない時もあったが、何とかギリギリでセーフにしてきた。いやこれは何も私だけの力ではなく、家族や友人のお蔭と感謝している。フェイスブックの「友達」から思いがけずに沢山のお祝いのメッセージを頂き感激した。また社友からもお気遣いを頂き、これも亡き野村秋介先生のご加護と感謝している。この歳までとりあえず恙なく生きて来れたことに感謝か。

今日は七時から植垣康博さんが経営するスナック「バロン」でイベントがあり出席のために静岡行き。植垣さんとは思想は違うが、その昔、東京拘置所で所内での生活の仕方を教えて頂いたり、本を差し入れして頂いたりとお世話になった。また「群青忌」にも必ず参加して頂いている。植垣さんは二十年以上も拘置所や刑務所に拘禁されていた。凄いのは野村先生が「経団連事件」で逮捕された時も一緒だったと言うのには驚く。余談ではあるが、その後植垣さんが甲府刑務所に下獄し、出所した後、植垣さんの称呼番号を受け継いだのが、東京証券所を襲撃した板垣哲雄君だ。また、「実話ナックルズ」などで何度か対談もさせて頂いた。植垣さんとは何かと縁がある。

静岡駅に着いたのは五時。改札には山平重樹さんと岐阜の怪人、細川嘉彦先生が待っていてくれた。山平さんには『連合赤軍物語 紅炎 (プロミネンス』(徳間文庫) の著書があり、細川先生は、植垣さんが岐阜刑務所にいる泉水博さんの裁判の支援に岐阜に行くたびに植垣さんを逮捕、拉致して酔わせると言う公安警察以上のテクニックを持っている人である。また細川先生は全国の飲み屋に精通しており、今日もネットワークを駆使して、静岡に来る前に清水の寿司屋で山平さんと一杯やって来たとのこと。その嗅覚で案内して頂いたのが昭和の香りのする「青葉横丁」。ご推薦の店は五時過ぎだと言うのにスタンパイのお客がいた。待っていられないので妙齢のおかみさんのいるお店に入ったが、静岡おでんに打ちのめされた。いやはや美味かった。

七時前に「バロン」着。すでに細川先生は奈良漬け状態。三〇分ほどで中座し、酔い覚ましに狭斜の巷へ。二時間ほど飲んで駅で細川先生と別れて電車に乗ろうとしたら鈴木邦男さん一行とバッタリ。逃亡がばれてしまった。車中、今週最後の酒、ハイボールを山平さんと二缶飲んで帰宅。明日から一週間、医者からきつく禁酒を言い渡されているので、当分寂しい日々が続く。

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