白雲去来

蜷川正大の日々是口実

困ったものだ。

2019-08-23 13:52:55 | 日記
八月十九日(月)曇り。

解決済みの徴用工問題を持ち出して、在韓の日本企業の資産を差し押さえる。こんなことに対して手を拱いていたら日本政府の信頼と信用が失墜する。国際間の約束事を反故にして世論に阿る。大衆迎合主義の最たるものだ。七十年代の新左翼運動が全盛期だった折の活動家が、成長せずにそのまま大統領になった感がある。大統領が変わるたびに、「俺は、反日だ」ということを強調しなければ支持率が保てないと言うのも、考えてみれば不幸なことだ。仲良くして何か問題があるのだろうか。良く分からん。

夜は月に一度の仲良しさんたちとの食事会を野毛の「弥平」にて行った。やはり話題は日韓問題。私が、「こんなに日韓がぎすぎすしているのに、先日、韓国料理の「関内苑」へ行ったら、満員だった」。と言ったら、皆さん「日本は良い国だ」と。終了後に関内へ転戦。

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明治の名残の遊び。

2019-08-22 12:56:58 | 日記
八月十八日(日)晴れ。

私の世代では、当然ながら日露戦争は、遠い時代の話でしかないが、遊びの中に日露戦争の名将、乃木将軍と東郷元帥の名前が残っていた。何という名前の遊びかは忘れたが、鬼となったものが壁や塀の前に立って目をつぶり、後ろにいる子供たちに「東郷さんは偉い人」と言って振り向く。その時に、後ろにいる子供たちは、動きを止める。もし動いた所を見つかったならば、アウトで今度は、その子が鬼となって「東郷さんは偉い人」とやる。

その遊びが、今日は「東郷さん」だったが、翌日は「乃木」さんに代わったりする。小学生の低学年の頃の遊びだったから、東郷さんや乃木さんがどんな人なのか全く知らず、単にそう言う遊びがあるということの知識しかなかった。その他、江戸時代から伝わるとも言われている「通りゃんせ」や「かごめかごめ」、「ずいずいずっころばし」といった遊びを今の子供たちはやるのだろうか。ちなみに我が家では、それらの歌は、教えていた。夏に、天秤棒を担いだ「金魚売り」や「風鈴売り」を見なくなってどれくらい経つのだろうか。

昨日、松原商店街で「鮭のハラス」と「カツオ」を買ったが、どちらも残念な物だった。夜は、それにナス炒めと冷奴で独酌。お供は「三岳」。夜もクーラーのスイッチを切れない。

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大好物のアイスバイン。

2019-08-22 10:45:42 | 日記
八月十七日(土)晴れ。

相変わらず今日も暑い。一日中クーラーをつけっぱなしでいるなんて、めったにないことだ。最も、事務所に行くのも面倒なので、酔狂亭で、チンタラ仕事をしているので、この時期、クーラーは必需品である。都会から土の道路が消え、皆、アスファルトかコンクリートになり、土の道路を見るのも珍しくなった。このコンクリートやアスファルトからの照り返しと、クーラーの室外機から出る熱、これが気温の上昇に一役買っているのは、間違いないだろう。

一昔前ならば、朝からクーラーをつけての食事など、それだけで贅沢だったが、今ではそんなことを「贅沢」と非難する人もいないだろう。そんな朝の朝食は、ボイルウインナーの盛り合わせ、目玉焼き、キャベツの千切り、トロロコブのスープ。昼は抜いた。夜は、カツオ、カルビ焼き、カニカマとキャベツのマヨネーズ和え。お供は「三岳」。

ボイルウインナーと言えば、銀座のライオンを思い出す。東京に行って、昼間に飲みたい時、必ずと言って良いほどライオンに行く。一階のビヤホールの戦前の佇まいが好きだ。まず黒ビールのジョッキを頼んでから、ウインナーの盛り合わせとアイスバインと別盛でザワークラウトをオーダーする。おうおうまるでドイツ人みたいじゃないか。と一人ごちで、グビグビ、プハッー。これが溜まらん。アイスバイン(豚肉塩漬けの豚すね肉を、タマネギ、セロリなどの香味野菜やクローブなどの香辛料とともに数時間煮込んで作る。ザワークラウトやジャガイモとともに供されることが多く、マスタードをつけて食べるのが一般的)だが、なぜか銀座の店の物が一番おいしいように思えてならない。銀座のお店以外では、上野、横浜、名古屋のライオンで食べたが、どうもイマイチなのだ。私の仲良しの飲み仲間も同じことを言っていた。昼間の東京の用事がないかなぁー。

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スワニー河

2019-08-21 14:31:37 | 日記
八月十六日(金)曇り後晴れ。

朝起きると、寝間着代わりにしているTシャツの首回りが汗でぐっしょりである。とりあえず着替えをして朝食。鮭フライ、コロッケ、キャベツの千切りにとろろこぶのスープ。先日見たテレビで、トロロコブは、肝臓?内の塩分を排出する効果がある、とやっていた。もともと好物なので、なるべく毎日取るようにしている。昼は、清風楼の焼売、。朝の残りのコロッケ、小チキンラーメン。夜は、焼きそば、餃子、エビチリ、お供は「三岳」。

以前、このブログに「泣ける歌」があることを書いた。信州大学のかつての寮歌「春寂寥」と、木村美保の歌う「白線流し」であるが、私にとって「泣ける歌」はまだ何曲かある。思い出と重なる歌が多いが、その代表的な物に「スワニー河」(故郷の人々)がある。この歌を聞くと、小学校の校舎から見た、暮れなずむ空の彼方に浮かぶ富士山を思い出す。もちろんその富士山にダブって、教室のざわめきや、同級生のことなどを。

私が通った横浜市立太田小学校は、東條さんたちを荼毘に付した久保山火葬場に続く道沿いにあり、三春台という丘の上にあった。私の家からは旧坂というかなり急な坂道を登って行った。右に関東学院、その斜め前に小学校があった。坂を上りきって、登って来た道を振り返ると、埋め立てする前の根岸の海が見えた。晴れた日には、教室から富士山が見え近くの山の木々が季節ごとに色鮮やかに、目を楽しませてくれた。「スワニー河」を聞くと、その頃のことが、一度に眼前に甦って来るのだ。さらに、これまでの自身の来し方に忸怩たる思いが重なり、涙腺がゆるむ。セピア色になった入学式の写真がある。昭和三十三年のこと。そこに写る人たちの消息を一人も知らない。※私は左側の一番上に居ます。

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いつか香らん 靖国の華

2019-08-21 13:49:35 | 日記
八月十五日(木)晴れ、一時雨。終戦の日。

終戦の日、玄関にて皇居遥拝。大東亜戦争にて散華した皇軍将兵のことを思う。野村先生は、自決に際して同志らに宛てた「檄文」、「天の怒りか、地の声」の末尾にこう書いた。「ちなみに、神風特攻機は二千八百四十三機飛び立ち、二百四十四機が敵艦に突入したと記録にある。英霊よ、安らかに眠れ。いつの日か必ず有色人種である日本人が、白色人種と三年半にわたって死闘を展開した、真なる意味が何であったのかは、後世の史家が明らかにしてくれるであろう」。と。そして辞世の歌として、

  さだめなき世なりと知るも草莽の 一筋の道 かはることなし

十時過ぎに保土ヶ谷駅に向かい東京行き。十一時に東京駅にて松本佳展君、紗枝ちゃん、砂川桂君らと待ち合わせて靖国神社へ。途中、雨が落ちてきた。英霊の涙かもしれない。靖国神社にて多くの同志と会い、正午に、全員で黙祷。終戦の年の今日も、このような猛暑であったのだろうか。この日に靖国神社を詣でることに賛否はあるのだろうが、しかし私は、七十四年前の今日、当時の日本の国民が等しく感じた敗北感と喪失感・・・。その先人の思いを追体験するには靖国神社が一番ふさわしいと思っている。

   国敗れ 乱るる御代と なりしとも いつか香らん 靖国の華

靖国神社を後にして、大熊雄次氏の案内で御徒町の吉池にて直会。その後新東洋に転戦。

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