白雲去来

蜷川正大の日々是口実

売電いやバイデンさんになった。

2021-01-25 17:32:13 | 日記

1月22日(金)晴れ。

アメリカの大統領が、「アメリカン・ファースト」のトランプさんから、民主党のバイデンさんへと変わった。(バイデンと入力すると「売電」となる。ソーラーパネル屋の回し者か)。大体、民主党の候補が大統領になると、日本にとってあまり良いことはない。お隣の大統領のように、何か国内事情が悪くなると日本に言いがかりを言ってくるようなことにならなければ良いが。

朝は、レトルトの肉団子、竹輪揚げ、新玉ねぎの味噌汁。昼は、有名な「乃が美」の食パン一枚。夜は、古い友人と自宅近くの「浜一寿司」にて恐る恐るの一献会。愚妻が合流。友人氏、春で退職するという。もう30年近いお付き合いをさせて頂いている。「ご苦労さん会」でもやるかな。

午後から、関内にある友人の会社を訪問。19日に「ふぐの会」を催す予定だったが、参加予定の友人が、従業員コロナで陽性になったこともあり「自宅待機」を余儀なくされたために延期。帰りに北方謙三の『楊家将』上下(PHP)、「罅(ひび)」(集英社)、『水色の犬』(徳間書店)を頂く。皆、著者のサイン入りである。帰宅後、それらの本に、中々買えないという川崎の煎餅屋の「堂本」、高島屋、うなぎの「菊屋」の包装紙でブック・カバーにした。


  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

高齢者講習へ。

2021-01-23 16:39:13 | 日記

1月21日(木)晴れ。

朝食は、鶏肉うどん、小さいいくら丼。昼は、自宅でハンバーガー一個。夜は、メジマグロの刺身、ポークソテー、鳥団子揚げ、千枚漬け。お供は「黒霧島」。酔狂亭にて独酌。

3月に免許の更新がある。そのために「高齢者講習」を最寄りの自動車教習所で受けなければならにない。それが今日である。私の住所だと神奈川ドライビング・スクールへ行くことになる。この教習所は私の事務所に行く途中の「いなり坂」という急坂のふもとにあり、その昔私が免許を取ったところでもある。会場に行けば、旧知の内田春雄さんご夫妻とばったり。奥さんの付き添いで来たとのこと。お優しいことで、仲良きことは良きことかな。一時間ほどの講習を受けてから、運転のテスト。一時間も講習かめんどくさいなぁー。と思っていたら、担当の先生の話が面白くて時間が気にならなかった。

戦後、一番交通事故での死者が多かったのは昭和45年で、1万6765人もの人が亡くなった。日清戦争(これまた例えが古い)での死者が1万3800人。つまり日清戦争より死者が多かったことから「交通戦争」と呼ばれた。とは担当の先生の話。ナルホド。その後、本当に久しぶりに自動車教習所のコースを二周ほどして終了した。最後は、視力検査。結果、静止視力0,7。動体視力0,3。「やや優れている」とのこと。免許の更新に必要という「高齢者講習修了証」を貰って全て終わった。5100円でした。

何やら日本では、NiziU(ニジュー)とかいう女の子たちが歌って踊って人気があるそうだが、こちとらニジューどころか、もうすぐナナジュウだぜ。まだ負けんからね。

 


  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

懐メロは酒の肴になる。

2021-01-21 11:26:21 | 日記

1月20日(水)晴れ。

武田鉄矢の司会の「昭和は輝いていた」というBSテレ東の番組が好きで録画しながら同時進行で見ている。もちろん全てが私の興味のあるものではないが、それでも「昭和歌謡」はほとんどの歌を口ずさむことができる。日付は忘れてたが「ザ・ピーナツ」の特集がとても良かった。確かBSのTBSでも三時間特集をやったが、かなりかぶる所もあったが、これも私の永久保存版。

それでも「ザ・ピーナツ」が「可愛い花」や「情熱の花」を歌って最初の人気を博したのは昭和34年(1959)で、そのころ私はまだ小学生だった。家にテレビもなく、もっぱらラジオで流れる彼女たちの歌を聞いていた。といっても意識して聞いていたのではなく、聞こえていた、という方が正しいのかもしれなぃ。

彼女たちを代表するヒット曲である「恋のバカンス」が発表されたのは、私が中学一年生の時。初めて女性を意識した歳、いわゆる思春期の頃と重なるので、今でも、いつも遠くから見ていた一級上の水泳部にいたI・Nさんのことを思い出すことがある。中学の三年生頃からビートルズやヤードバーズといった洋楽に興味を持ち、ほとんど歌謡曲や日本のポップスを聞かなくなった。10代の後半頃は自分の人生の中で一番、洋楽を聞いていたかもしれない。ジャズ、R&B、BBキングやジョン・メイオールなどのブルースに没頭していた。

そういった趣味が一変したのは、昭和45年(1970)11月25日に起きた、いわゆる三島由紀夫・森田必勝両烈士の自決事件によってである。もっと柔軟な考えを持てば良かったが、当時は、自分の中の「洋風」を否定することが自分を変えることだと、今から思えば浅はかな考えを持った。

演歌や昭和歌謡をしみじみ聞くようになったのは60歳を過ぎた頃からか。最近は、とみに青春時代に流行った歌や曲に魅せられている。「昭和は輝いていた」の番組のCMで「大人のムード歌謡」とか「ポップス黄金時代」といったCDが紹介される。酔っていると、それらの曲の中に過去が重なり、思わず注文しようかと思うが、家族から「また酔っぱらって買ったの」と言われたくないので、家庭円満のために鉄の意思でスルーしている。先がないゆえに、過去を懐かしんだって誰にも文句は言わせない。(言うやつもいませんが)

夜は、おとなしく酔狂亭にて月と影とで三人となり独酌。お供は「黒霧島」。肴は、鳥の手羽蒸し、サバの竜田揚げ、千枚漬け。酒だけは避けられない。

 

 


  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

祈るほかに術はない。

2021-01-21 11:26:21 | 日記

1月19日(火)晴れ。

良い天気である。そういえば年末から今日まで、ほとんど歩いていない。酒と肴と読書と映画の日々。と言えば何やら格好良く聞こえるが、まあ早い話が、食っちゃ寝のすこぶる非生産的な日々を過ごしてきたわけだ。都合の悪いことは全てコロナのせいにして。

という訳で、朝の光がまぶしい日の朝食は、イワシのフライ、ササミのフライにキャベツの千切り添え、新玉ねぎの味噌汁。昼は抜いた。夜は、ナスと豚肉と新玉ねぎのオイスター炒め、チキンカツ、ポトフ。お供は「黒霧島」。酔狂亭にて月下独酌。

午後から、足慣らしをしようと思って、久しぶりに大好きな伊東ゆかりさんの歌を聴きながら40分ほど歩いた。相変わらず、神奈川のコロナの罹患者の数は減らない。一応気を付けてはいるが、家族だって仕事をしているし、私だって人と会わないことは無い。祈るほかに術はない。

 


  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

「横浜の歌ベスト10」に知らない歌が3曲もあった。

2021-01-20 13:56:53 | 日記

1月18日(月)曇りのち晴れ。

朝は、チキンソテー、納豆、もやしの味噌汁。昼は、下の子供と焼肉・京城苑にてランチ。夜は、イワシのフライ、チキンカツ、キャベツの千切り、新玉ねぎと豚肉のオイスターソース。上の子供を駅に迎えに行かねばならないので休肝日とした。

そういえば、子供と伊勢佐木町のすぐ近くにある吉田橋通りの京城苑でランチをした帰りに、『週刊文春』の書評にあった『ロッキード』を買うために有隣堂へ寄った。しかし、しかしだ・・・。あまりのぶ厚さに一瞬で萎えた。これを全部読む忍耐力がもうない。勘弁してくださいよ。と心でつぶやいて、神奈川新聞社と横浜市が共同で発行している。『横濱』の「歌、映画、ドラマに見る横浜」という特集号を買った。その中に20代~70代の男女から、まんべんなく聞いた「好きな横浜の歌」。という項があった。ベストテンの一位は「ブルー・ライト・ヨコハマ」だが、ベストテンの中に知らない歌が3曲もあって、ちょっと驚いた。

私が知らなかった「横浜の歌」と言うのは、「秋の気配」「LOVE・AFFAIRー秘密のデート」「One moretime One more chance」の三曲。笑っちゃうのは、「One moretime One more chance」の歌詞を調べたら、「いつでも捜しているよ どっかに君の姿を 明け方の街 桜木町で」というフレーズがあった。我々の世代だったら、明け方の桜木町駅前周辺にいるのは、港での仕事を求めるプー太郎と手配師か酔っ払い・・・。というイメージがすぐに浮かぶ。世の中変わったものだ。

 


  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする