白雲去来

蜷川正大の日々是口実

IT音痴。

2021-03-18 08:53:34 | 日記

3月15日(月)晴れ。

全くIT関係には音痴である。例えばスマホ、設定なんかした覚えはないのに昨日から8時30分になるとなぜかアラームがなるようになった。電話が鳴って出ようとすると画面が全く関係のないものになって、すぐに出られなかったり、写真を撮ろうと思うと動画になったり。あーあめんどくせー。

こんな具合だから、ヘタに飲み屋のオネエサンとラインのアドレスなどを交換しない。消し方が分からないので、一緒に移っいている写真など送ってこられたらシャレにならない。最近、着信音を「太陽がいっぱい」に変えた。機嫌のよい時に、お願いするのだが、川柳にある「居候、二杯目をそっと出し」という感じで我ながら情けない。ガラケーの時代が懐かしい。

パソコンも同じ。動画を切り取ったり、YouTubeの動画や音楽をSDカードやスマホに取り込むことが出来ず、いつも家族に頼んでいる。最近は、何か頼むとめんどくさがれるので、頭にくる。便利なのは原稿を書く時と調べ物をする時ぐらいか。歳と共にどんどん頭が退化して行くのだから、ボケ防止のために頑張らなくては。

夜は、本当に久しぶりに京急の井土ヶ谷駅近くの焼き鳥屋「ばくだん」へ友人と行く。コロナによる時短営業で、正午から開けているとのこと。4時に入店。二時間ほど飲んで帰宅。


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先輩のお墓参りへ。

2021-03-17 11:11:37 | 日記

3月14日(日)晴れ。

コロナの関係もあって一月遅れの先輩のお墓参り。その人の名前は、山崎邦雄さん。今から23年前の2月16日に亡くなられた。私より2級上の中学の先輩だった。その頃、お互いの家も近く、中学に入った時に、山崎さんから誘われて陸上競技を始めた。

その後、山崎さんはY校の別科を卒業して理容師となった。グアム行きの客船の床屋さんをやったりかなり自由な青春を過ごしていた。いつ頃からか、(多分昭和49年、50年頃)伊勢佐木町のオデオンビルの正面の二階にあったスタンドロックというカクテルコーナー(当時は、カウンター・バーをそう呼んでいた)で働いていて、随分と通ったものだ。

そのお店でアルバイトとして働いていたのが、M原博雅、山崎ジュニアといった今でも親しくしている人たちで、山崎さんを中心にして仲良しさんとの交際が今日まで続いている。山崎さんが亡くなられたのは平成10年(1998)のこと。以来、毎年2月に、仲良しメンバー7人でお墓参りを続けている。

終了後に、藤棚の「愛福楼」にて直会。その後、無理を言って「オアジ」に転戦。六時過ぎに帰宅して、そのまま寝てしまった。※写真は私が中一、山崎さん(右側)が中三。山崎さんが初めて背広を着た記念で写真を撮ろうということになった。場所は、三春台の関東学院の階段。小さくて見づらいが、私の胸のワッペンは、翌年の東京オリンピックの協賛のもの。


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『Fukushima50』を見た。

2021-03-15 11:29:12 | 日記

3月13日(土)風雨激しき日。

昨日、出かける前に、腰に手を当ててグビッと「ウコン」を飲んだのにも関わらず、今朝は少々酒が残り、10時近くまで寝ていた。雨が雨戸を叩く音が激しい。

昼食に近い朝食は、サバの文化干し、餃子、納豆、ナスの味噌汁。夜は、マグロの刺身、残念なカツオに〆はカレーうどん。「魔王」のソーダー割りを三杯だけ飲んでやめた。

夜は、録画しておいた、2020年3月6日に公開された『Fukushima50』を見た。この映画は、門田隆将氏の著書『死の淵を見た男 吉田昌郎と福島第一原発』を原作に東北沖大震災に伴う福島第一原発事故と発電所に留まって対応業務に従事した約50名の作業員たちの闘いを描いたもの。とても良い映画だった。

原発問題は難しい。ともすれば感情論や原理主義的になってしまう。未だ解決しない福島原発の事故。ある専門家によれば、チェルノブイリ原発のように「石棺」で覆い、30年、40年先に科学の発展を待って処理するしか策がない。と言うようなことを言っていた。思わず溜息が出た。

電力の大切さは理解できるが、これだけ地震の多い国で大丈夫かいなと思ってしまう。


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はしたない。

2021-03-15 10:35:47 | 日記

3月12日(金)曇り後雨。

その昔、伊丹十三が監督した映画に「あげまん」というものがあった。タイトルを、見た時、随分と品のない題名と思ったものだ。諸説あるらしいが、一般に「あげまん」とは「一緒にいることで男性の運気を上げる女性の俗称 。反対に、不運な巡り合わせにする女性を『さげまん』と称する」とは(wiki)からの引用である。普通、おおっぴらにする会話の中で使うのではなく、いわゆる隠語として使うものと認識している。

さる国の元お姫様。テレビの前で、王室のあることないこと。又は、ないこと、あることを語る。この事だけで良識ある人から、「はしたない」、「常識に乏しい」と思われても仕方がない。そういう女を選んだお坊ちゃまんにも責任があるが、まあ「さげまん」の典型かも知れない。

そのお姫様のことを、アメリカ人のタレントが、テレビの情報番組の中で、「王族に入るときにセレブ感にあふれると思っていたけれど、周りは愛国心が強く、奉仕精神がとても大事なので、ちょっと違うんじゃないかとだんだん、(王室から)離れていった」と推測した。説得力のある話だ。

夜は、親しい方たちと本当に久しぶりに「たん右衛門」にて一献会。「馬刺し・牛タン・さがり・つくね・タンばしら」を堪能。ご馳走様でした。

 


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あれから10年か。

2021-03-13 14:20:33 | 日記

3月11日(木)晴れ。東北大震災から10年。

早いもの・・・。などと言ったら犠牲になられた方々に失礼かもしれない。10年前の今日、私は友人たちと、後輩の結婚式に出席するために札幌にいた。到着したのは震災の起きる1時間ほど前だった。空港に迎えに来てくれた山本和八君(確か)の運転する車で空港から札幌の中心街へと向かっている途中で、山本君が「車が揺れています。地震かも」と言うので、何も感じなかった私が、「太っているから眩暈じゃないの」などと軽口を返した。

ホテルのチェックインまで、まだ時間があるので、屋台村のようなところで軽く一杯やろうということになってお店に入った。すると、テレビのある所にいた他のお客の「うあっー」、「大変だぁー」とか言って騒いでいる声が聞こえた。我々もテレビの前に行ったら、画面は津波が畑から道路に押し寄せている映像が流れていた。一瞬、そのことが理解できずに周りの人に「どこですか」と聞いたら「宮城県です」。それから、しばらくテレビにくぎ付けになった。

ニューでは、関東地方にも被害が及んでいると言っている。横浜駅付近のビルの壁が落ちたり、人々が座り込んでいる映像に慄然とした。皆で、後輩にお祝いだけ渡して東京に戻ろうと千歳の空港に電話するが、飛行機は飛ばないというし、家族の電話もつながらない。その後、ホテルに入って、ようやく電話がつながり、幸いなことに家族は皆無事だという。その後、ニュースで被害の大きさを知り、暗澹たる気持ちになった。それから10年。まだ完全に復興がなされたわけではないが、月並みな言葉で申し訳ないが、頑張ってほしいと思っている。他に言葉が見つからない。


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