ハンデが結果にどういう影響をもたらすかが注目だった第7回兵庫ゴールドトロフィー
キングスゾーンが逃げて2番手にアグネスジェダイ。プリサイスマシーンが3番手で内にメイショウバトラー,外にリミットレスビッドと有力馬が前でのレースになりました。
3コーナー手前,アグネスジェダイが先頭に出るとキングスゾーンは抵抗できずに後退。プリサイスマシーンとリミットレスビッドが外から追いかけ,メイショウバトラーはこれらの後ろでまだ控えました。
直線,アグネスジェダイを交わしてプリサイスマシーンが先頭に立つと,さらに外からリミットレスビッドが交わして優勝。一旦は控える形になったメイショウバトラーが,ゴール前で鋭く伸びたものの,プリサイスマシーンには届かず,プリサイスマシーンが2着,メイショウバトラーが3着でした。結局ハンデには関係なく,実力上位の馬による決着となっています。
優勝したリミットレスビッドは10月の東京盃以来の勝利。重賞はこれが7勝目で,このレースも昨年に続く連覇。どういう基準でハンデがつけられたのか分かりませんが,ここは59.5キロのトップハンデ。これは明らかに不利と思えますので立派です。冬場は強いタイプ。もうすぐ9歳になるわけですが,極端な衰えというのもないようです。
明日は棋王戦挑戦者決定戦です。棋王戦は敗者復活制度があり,これは変則二番勝負。勝者組の羽生善治二冠が勝てばすんなり挑戦,敗者組の阿部隆八段が勝ちますと,年明けにもう一局ということになります。
理性というのを,人間が人間の本性に従って事物を認識することであると前提しますと,憐憫という感情に関して,次のような別の問題が生じてきます。そこでこれについてあらかじめ弁明しておきます。
人間が三角形に対して憐憫の感情を抱くということは,まあ絶対といっていいほどないだろうと思います。ですので,これに関しては憐憫という感情の対象から捨象してしまっても問題はないだろうと思います。しかし,人間が憐憫の感情を抱く対象が人間だけであるかといえば,これは必ずしもそうではありません。むしろ人間のうちには,人間以外への憐憫の感情というのも生じるだろうと思います。
たとえば僕の趣味のひとつに競馬があります。そこで僕が馬に対して憐憫の感情を抱くことがないかといわれれば,それは絶対にないとは僕には答えられません。同様に,僕は飼っていませんが,ペットを飼っている人が,そのペットに対して憐憫の情を抱くということは,むしろよくあることなのではないかと思います。
ここでの考察では,こうした憐憫に関しては除外されてしまいます。しかしそれは,ここでは理性というのを人間が人間だけに共通の概念によって認識することと仮定しているからです。そこでもしも理性というものを,人間と馬,あるいは人間とペットに共通の概念と考えるならば,それが除外されることはありません。したがって,ここではあくまでも人間の人間に対する憐憫のみを考察していきますが,理性というものが意味する範囲を変更することによって,これから考察していく手続きと同様の手続きで,一般に,あらゆる対象への憐憫という感情についても,導かれる事柄は妥当であるということになります。
キングスゾーンが逃げて2番手にアグネスジェダイ。プリサイスマシーンが3番手で内にメイショウバトラー,外にリミットレスビッドと有力馬が前でのレースになりました。
3コーナー手前,アグネスジェダイが先頭に出るとキングスゾーンは抵抗できずに後退。プリサイスマシーンとリミットレスビッドが外から追いかけ,メイショウバトラーはこれらの後ろでまだ控えました。
直線,アグネスジェダイを交わしてプリサイスマシーンが先頭に立つと,さらに外からリミットレスビッドが交わして優勝。一旦は控える形になったメイショウバトラーが,ゴール前で鋭く伸びたものの,プリサイスマシーンには届かず,プリサイスマシーンが2着,メイショウバトラーが3着でした。結局ハンデには関係なく,実力上位の馬による決着となっています。
優勝したリミットレスビッドは10月の東京盃以来の勝利。重賞はこれが7勝目で,このレースも昨年に続く連覇。どういう基準でハンデがつけられたのか分かりませんが,ここは59.5キロのトップハンデ。これは明らかに不利と思えますので立派です。冬場は強いタイプ。もうすぐ9歳になるわけですが,極端な衰えというのもないようです。
明日は棋王戦挑戦者決定戦です。棋王戦は敗者復活制度があり,これは変則二番勝負。勝者組の羽生善治二冠が勝てばすんなり挑戦,敗者組の阿部隆八段が勝ちますと,年明けにもう一局ということになります。
理性というのを,人間が人間の本性に従って事物を認識することであると前提しますと,憐憫という感情に関して,次のような別の問題が生じてきます。そこでこれについてあらかじめ弁明しておきます。
人間が三角形に対して憐憫の感情を抱くということは,まあ絶対といっていいほどないだろうと思います。ですので,これに関しては憐憫という感情の対象から捨象してしまっても問題はないだろうと思います。しかし,人間が憐憫の感情を抱く対象が人間だけであるかといえば,これは必ずしもそうではありません。むしろ人間のうちには,人間以外への憐憫の感情というのも生じるだろうと思います。
たとえば僕の趣味のひとつに競馬があります。そこで僕が馬に対して憐憫の感情を抱くことがないかといわれれば,それは絶対にないとは僕には答えられません。同様に,僕は飼っていませんが,ペットを飼っている人が,そのペットに対して憐憫の情を抱くということは,むしろよくあることなのではないかと思います。
ここでの考察では,こうした憐憫に関しては除外されてしまいます。しかしそれは,ここでは理性というのを人間が人間だけに共通の概念によって認識することと仮定しているからです。そこでもしも理性というものを,人間と馬,あるいは人間とペットに共通の概念と考えるならば,それが除外されることはありません。したがって,ここではあくまでも人間の人間に対する憐憫のみを考察していきますが,理性というものが意味する範囲を変更することによって,これから考察していく手続きと同様の手続きで,一般に,あらゆる対象への憐憫という感情についても,導かれる事柄は妥当であるということになります。