僕のプロレスキャリア以前のプロレスで,僕が最も面白いと感じた抗争は,意外な,しかしある見方からすれば必然的な仕方で終止符を打ちました。それがアラビアの怪人ことシークとパートナーであるブッチャーの仲間割れでした。
この仲間割れについては諸説ありますが,もっともらしく語られているのは,ブッチャーはアメリカでシークによって見出されたレスラーであり,いわばシークが師匠でブッチャーが弟子といった関係にあたるのですが,日本でブッチャーがシーク以上の大物になってしまったために,この関係が崩壊し,仲間割れに至ったというもの。しかし現実的にいうならば,ブッチャーがシークの手下として戦うのが不自然になったからではないでしょうか。いい換えれば仲間割れをしたということは,むしろシークがブッチャーを一人前のレスラーとして認めたということであって,本気で喧嘩をしたとかいうことではないのだろうと思います。
ただしこの仲間割れは,ブッチャーにとってはともかく,シークにとっては日本でプロレスをする上ではマイナスに作用したと思います。というのも,シークというのは暴れるだけでほとんどプロレスらしいプロレスはしませんでしたから,ブッチャーと組んでのタッグマッチならある程度は試合として成立しましたが,シングルではそうはいきません。僕のプロレスキャリアが始まった頃から,シークは全日本プロレスに呼ばれなくなったのですが,もしもブッチャーとのチームが継続していたなら,こうしたこともなかったのではないかと思うのです。
第二部定理七により,物体の秩序と観念の秩序は同一です。したがって,物体Xがあるなら,この物体の観念Xは,物体Xが有しているのと同じだけの秩序を有しているのでなければなりません。同じことは,第一部公理六からもいえると思います。
ところで,前提条件により,物体Xがあるならば,この物体Xはそれがあるという力を有しているということになります。したがって観念Xの中にも,そうした力があるということになります。
しかし,ここで注意しておかなくてはならないのは,この観念に含まれるような力というのは,物体Xに含まれる力,すなわち物体Xの実在性そのものではないということです。むしろこれは観念Xの実在性なのであって,物体Xの実在性と同じ秩序ではあるけれども,物体Xの実在性が延長の属性としての実在性であるのに対して,観念Xの実在性は思惟の属性の実在性であるという相違があることになります。この証明との関連で第二部定理七がとくに意味しているのはこのことだと考えなければなりません。
実在性とは力という観点からみた本性であり,事物の本性は事物の存在を肯定し,排除しません。したがって,ある観念の実在性もまた,この観念の肯定であり,この観念が思惟の様態として実在することを排除しないような思惟の様態であるということになります。
ところで,意志作用とは,真であるものを肯定するような力であるというのがスピノザの哲学における理解です。したがって,ある観念と意志作用との関係は,ある事物とこの事物の実在性の関係に等しいということになります。いい換えれば,意志作用とは,力という観点からみた観念にほかならないのです。
知性は個々の観念の総体であり,意志とは個々の意志作用の総体です。よって知性と意志とは同一であるということになります。
この仲間割れについては諸説ありますが,もっともらしく語られているのは,ブッチャーはアメリカでシークによって見出されたレスラーであり,いわばシークが師匠でブッチャーが弟子といった関係にあたるのですが,日本でブッチャーがシーク以上の大物になってしまったために,この関係が崩壊し,仲間割れに至ったというもの。しかし現実的にいうならば,ブッチャーがシークの手下として戦うのが不自然になったからではないでしょうか。いい換えれば仲間割れをしたということは,むしろシークがブッチャーを一人前のレスラーとして認めたということであって,本気で喧嘩をしたとかいうことではないのだろうと思います。
ただしこの仲間割れは,ブッチャーにとってはともかく,シークにとっては日本でプロレスをする上ではマイナスに作用したと思います。というのも,シークというのは暴れるだけでほとんどプロレスらしいプロレスはしませんでしたから,ブッチャーと組んでのタッグマッチならある程度は試合として成立しましたが,シングルではそうはいきません。僕のプロレスキャリアが始まった頃から,シークは全日本プロレスに呼ばれなくなったのですが,もしもブッチャーとのチームが継続していたなら,こうしたこともなかったのではないかと思うのです。
第二部定理七により,物体の秩序と観念の秩序は同一です。したがって,物体Xがあるなら,この物体の観念Xは,物体Xが有しているのと同じだけの秩序を有しているのでなければなりません。同じことは,第一部公理六からもいえると思います。
ところで,前提条件により,物体Xがあるならば,この物体Xはそれがあるという力を有しているということになります。したがって観念Xの中にも,そうした力があるということになります。
しかし,ここで注意しておかなくてはならないのは,この観念に含まれるような力というのは,物体Xに含まれる力,すなわち物体Xの実在性そのものではないということです。むしろこれは観念Xの実在性なのであって,物体Xの実在性と同じ秩序ではあるけれども,物体Xの実在性が延長の属性としての実在性であるのに対して,観念Xの実在性は思惟の属性の実在性であるという相違があることになります。この証明との関連で第二部定理七がとくに意味しているのはこのことだと考えなければなりません。
実在性とは力という観点からみた本性であり,事物の本性は事物の存在を肯定し,排除しません。したがって,ある観念の実在性もまた,この観念の肯定であり,この観念が思惟の様態として実在することを排除しないような思惟の様態であるということになります。
ところで,意志作用とは,真であるものを肯定するような力であるというのがスピノザの哲学における理解です。したがって,ある観念と意志作用との関係は,ある事物とこの事物の実在性の関係に等しいということになります。いい換えれば,意志作用とは,力という観点からみた観念にほかならないのです。
知性は個々の観念の総体であり,意志とは個々の意志作用の総体です。よって知性と意志とは同一であるということになります。