いよいよ煮詰まってきた第59期王将戦七番勝負の第六局。
羽生善治王将の先手で久保利明棋王は当然のごとくエース戦法のごきげん中飛車。③CⅠの超急戦。局数を重ねてかなり定跡ができあがっていますので,どこから未知の領域に入るのかという将棋。そしてそれが封じ手直後の☖8一銀。当然ながら両者ともに事前の研究がある筈で,ここからは研究合戦です。先手はそこで☗6五香打として,結果的に飛車と馬を入手し大きな駒得に。代償に手番を握った後手が攻めて第1図。
ここで☖4五桂と打ちました。さらに☗5六香と取られて駒損が拡大し,攻めが心細くなりそうなだけにやりにくそうな手ですが,これは好手だったようです。以下☖5七香☗4八銀☖5八香成☗同王☖5七歩☗同銀☖同桂成☗同王に☖4九角成。先手は☗5八桂と受け,☖5九金に☗6五香と反撃。しかし☖6九金(第2図)と取られてみると,後手玉がきわどく詰まないので,先手の勝ちは盤上から消えていました。
久保棋王が4勝2敗で王将位奪取とともに自身初の二冠に。この両者の対局は終盤できわどくなると羽生前王将の方に分があるという印象がありましたので,この将棋を制したことは今後に向けても大きかったのではないかという気がします。
一口に排泄といっても,人間の身体corpusがなす運動motusとしての排泄行為は,さらに多くの種類に分類することが可能です。たとえば一昨年の大晦日に僕は嘔吐をしましたが,これも排泄の一種と考えることができるでしょう。また,それに関して僕が与えた説明からも,この行為が自己保存の法則に即した身体の運動であるということが理解できるのではないかと思います。すなわちあのときの嘔吐は,僕の身体がその現実的本性actualis essentia,あるいは現実的実在性を維持するという理由から生じたのだということです。
しかし排泄といって僕たちが真先にイメージするのは,嘔吐ではなく,排尿であり排便であるということになるでしょう。単純に僕たちの身体がなす回数という点から考えても,排尿とか排便というのは,嘔吐を圧倒するからです。そしてこれらふたつのうちでも,排尿の回数というのは排便の回数を上回りますので,ここでも排尿を事例として考察していきます。もちろん例は何を採用しても結論は同じになりますから,単に回数が多いということ以上の理由はありません。
ここでは排尿というのを,人間の身体の中に,あるいはもっと部分的に膀胱の中にといってもいいですが,溜まった尿を,身体の外に排出する運動であると定義します。すなわちこれは運動ですから,ある延長Extensioの様態modusとして考えるということです。なお,上述の定義Definitioに関しては,第三部定理二の考察で排尿の意味を説明したときにもいいましたが,スピノザの哲学における意味で排尿の定義である,すなわちこの中に,排尿の本性essentiaと発生が共に含まれていると僕は考えますが,これについて争うのは無用と思いますから,単に今回の考察の中ではそれを排尿というというように考えてもらっても構いません。
羽生善治王将の先手で久保利明棋王は当然のごとくエース戦法のごきげん中飛車。③CⅠの超急戦。局数を重ねてかなり定跡ができあがっていますので,どこから未知の領域に入るのかという将棋。そしてそれが封じ手直後の☖8一銀。当然ながら両者ともに事前の研究がある筈で,ここからは研究合戦です。先手はそこで☗6五香打として,結果的に飛車と馬を入手し大きな駒得に。代償に手番を握った後手が攻めて第1図。
ここで☖4五桂と打ちました。さらに☗5六香と取られて駒損が拡大し,攻めが心細くなりそうなだけにやりにくそうな手ですが,これは好手だったようです。以下☖5七香☗4八銀☖5八香成☗同王☖5七歩☗同銀☖同桂成☗同王に☖4九角成。先手は☗5八桂と受け,☖5九金に☗6五香と反撃。しかし☖6九金(第2図)と取られてみると,後手玉がきわどく詰まないので,先手の勝ちは盤上から消えていました。
久保棋王が4勝2敗で王将位奪取とともに自身初の二冠に。この両者の対局は終盤できわどくなると羽生前王将の方に分があるという印象がありましたので,この将棋を制したことは今後に向けても大きかったのではないかという気がします。
一口に排泄といっても,人間の身体corpusがなす運動motusとしての排泄行為は,さらに多くの種類に分類することが可能です。たとえば一昨年の大晦日に僕は嘔吐をしましたが,これも排泄の一種と考えることができるでしょう。また,それに関して僕が与えた説明からも,この行為が自己保存の法則に即した身体の運動であるということが理解できるのではないかと思います。すなわちあのときの嘔吐は,僕の身体がその現実的本性actualis essentia,あるいは現実的実在性を維持するという理由から生じたのだということです。
しかし排泄といって僕たちが真先にイメージするのは,嘔吐ではなく,排尿であり排便であるということになるでしょう。単純に僕たちの身体がなす回数という点から考えても,排尿とか排便というのは,嘔吐を圧倒するからです。そしてこれらふたつのうちでも,排尿の回数というのは排便の回数を上回りますので,ここでも排尿を事例として考察していきます。もちろん例は何を採用しても結論は同じになりますから,単に回数が多いということ以上の理由はありません。
ここでは排尿というのを,人間の身体の中に,あるいはもっと部分的に膀胱の中にといってもいいですが,溜まった尿を,身体の外に排出する運動であると定義します。すなわちこれは運動ですから,ある延長Extensioの様態modusとして考えるということです。なお,上述の定義Definitioに関しては,第三部定理二の考察で排尿の意味を説明したときにもいいましたが,スピノザの哲学における意味で排尿の定義である,すなわちこの中に,排尿の本性essentiaと発生が共に含まれていると僕は考えますが,これについて争うのは無用と思いますから,単に今回の考察の中ではそれを排尿というというように考えてもらっても構いません。