勝った方が棋王位を獲得する年度末の大一番,第35期棋王戦五番勝負第五局。
改めての振駒で佐藤康光九段の先手。こうなれば久保利明棋王はごきげん中飛車。先に▲2五歩△5二飛ですが①Aの形に。先手が早い段階で仕掛けていく将棋になりました。ただ,そこからまたゆっくりした展開となり,後手は穴熊へ。組んだ後手から動いていき,それに乗じるように先手も反撃して第1図。
ここで△同銀と取ったので派手な展開になりました。後手は駒損になるのですが,それより捌くことを重視した指し方。と金ができることも確定的で,久保棋王らしい一理ある指し方だったと思います。第2図へ。
ここで△7七歩と叩き,▲同桂と取らせて△3六角と打ちました。一本道と思われる変化で後手優勢になりましたので,▲5四飛と寄った手は疑問であったのかも知れません。
この後,後手はさらに1枚埋めて穴熊の堅さと遠さが生きる展開に持ち込みました。しかし先手の粘りに手を焼き,攻めあぐねて混戦に。そして迎えた第3図。
ここで△7九角打と王手。▲8八銀は当然で,△同角成▲同玉△5七角成が実戦の進行。△同角成のところで△9五歩,△5七角成のところで△6九ととできないのでは後手にとって損としか思えず,ここでは逆転したように思いました。しかし▲6六銀△3五馬に▲7五桂と寄せにいったのが性急だったかもしれません。やはり穴熊は遠くて堅く,攻めは届かずに後手の勝ちとなっています。
冷や汗ものの勝利で久保棋王が防衛。これであるいは今期の最優秀棋士賞も視野に入ったといえ,タイトル獲得3期による九段昇段と共に,単に棋王を防衛したというにはとどまらない大きな1勝だったと思います。
現実的に僕たちの精神のうちにここでいうところの尿意という観念が発生する場合を経験的な視点から考察してみると,この尿意に対して僕たちの精神が十全な原因であると主張すること,すなわちこれが尿意が十全な観念であると主張することにつながるのですが,これには無理があるように僕には思えます。だから僕は尿意というのは混乱した観念,とくに表象像だろうと考えるのです。
もしもある人間の精神が自分の尿意に対して十全な原因であるなら,この人間は自分の精神が現実的に存在する限り,尿意を形成する,あるいは形成し得るということになるでしょう。これは『エチカ』に訴えるまでもないことかもしれませんが,第二部公理二により人間は思惟するものですから,ある人間が現実的に存在するなら,この人間の精神もまた現実的に存在します。したがって尿意が十全な観念であるということを主張することは,ある人間が現実的に存在するなら,この人間は尿意を自身の精神のうちに形成し得ると主張することと同じ意味をもちます。したがって,僕たちは自分の状態がどういう状況であるということとは関係なく,尿意を形成する,あるいはできるのでなくてはなりません。
しかしこれは経験的にいって理不尽ではないでしょうか。僕たちが実際に尿意を形成するのは,僕たちの精神の本性を構成する対象,すなわち第二部定理一一により僕たちの身体が,尿を膀胱に溜めている場合に限られるのであって,そうでない場合にはいくら僕たちが尿意を形成しようと努めても,尿意を形成することはできないのではないでしょうか。いや,もちろん実際に尿が溜まっていなくても,たとえば極度の緊張状態にあるとき,僕たちは尿意を形成する場合もありますが,しかし僕たちの精神の力だけで,尿意を形成すること,つまり尿意に対して僕たちの精神が十全な原因であるということは,僕は不可能ではないかと思うのです。
改めての振駒で佐藤康光九段の先手。こうなれば久保利明棋王はごきげん中飛車。先に▲2五歩△5二飛ですが①Aの形に。先手が早い段階で仕掛けていく将棋になりました。ただ,そこからまたゆっくりした展開となり,後手は穴熊へ。組んだ後手から動いていき,それに乗じるように先手も反撃して第1図。
ここで△同銀と取ったので派手な展開になりました。後手は駒損になるのですが,それより捌くことを重視した指し方。と金ができることも確定的で,久保棋王らしい一理ある指し方だったと思います。第2図へ。
ここで△7七歩と叩き,▲同桂と取らせて△3六角と打ちました。一本道と思われる変化で後手優勢になりましたので,▲5四飛と寄った手は疑問であったのかも知れません。
この後,後手はさらに1枚埋めて穴熊の堅さと遠さが生きる展開に持ち込みました。しかし先手の粘りに手を焼き,攻めあぐねて混戦に。そして迎えた第3図。
ここで△7九角打と王手。▲8八銀は当然で,△同角成▲同玉△5七角成が実戦の進行。△同角成のところで△9五歩,△5七角成のところで△6九ととできないのでは後手にとって損としか思えず,ここでは逆転したように思いました。しかし▲6六銀△3五馬に▲7五桂と寄せにいったのが性急だったかもしれません。やはり穴熊は遠くて堅く,攻めは届かずに後手の勝ちとなっています。
冷や汗ものの勝利で久保棋王が防衛。これであるいは今期の最優秀棋士賞も視野に入ったといえ,タイトル獲得3期による九段昇段と共に,単に棋王を防衛したというにはとどまらない大きな1勝だったと思います。
現実的に僕たちの精神のうちにここでいうところの尿意という観念が発生する場合を経験的な視点から考察してみると,この尿意に対して僕たちの精神が十全な原因であると主張すること,すなわちこれが尿意が十全な観念であると主張することにつながるのですが,これには無理があるように僕には思えます。だから僕は尿意というのは混乱した観念,とくに表象像だろうと考えるのです。
もしもある人間の精神が自分の尿意に対して十全な原因であるなら,この人間は自分の精神が現実的に存在する限り,尿意を形成する,あるいは形成し得るということになるでしょう。これは『エチカ』に訴えるまでもないことかもしれませんが,第二部公理二により人間は思惟するものですから,ある人間が現実的に存在するなら,この人間の精神もまた現実的に存在します。したがって尿意が十全な観念であるということを主張することは,ある人間が現実的に存在するなら,この人間は尿意を自身の精神のうちに形成し得ると主張することと同じ意味をもちます。したがって,僕たちは自分の状態がどういう状況であるということとは関係なく,尿意を形成する,あるいはできるのでなくてはなりません。
しかしこれは経験的にいって理不尽ではないでしょうか。僕たちが実際に尿意を形成するのは,僕たちの精神の本性を構成する対象,すなわち第二部定理一一により僕たちの身体が,尿を膀胱に溜めている場合に限られるのであって,そうでない場合にはいくら僕たちが尿意を形成しようと努めても,尿意を形成することはできないのではないでしょうか。いや,もちろん実際に尿が溜まっていなくても,たとえば極度の緊張状態にあるとき,僕たちは尿意を形成する場合もありますが,しかし僕たちの精神の力だけで,尿意を形成すること,つまり尿意に対して僕たちの精神が十全な原因であるということは,僕は不可能ではないかと思うのです。