『それから』で表面的に語られている物語は,代助が平岡の妻である三千代と三角関係になり,最終的に平岡から三千代を奪うということです。このとき,三千代を挟んで争うふたりの男は経済的には対照的な関係にあります。すなわちその時点での代助は金銭には何不自由していませんが,平岡は困窮にあえいでいるのです。つまりこの物語には,裕福な男と困窮した男がひとりの女を巡って争い,裕福な男が勝利するという内容が含まれていることになります。
こうした関係は,『こころ』にも受け継がれているのだと解釈することができます。『こころ』では先生とKが静を巡っての三角関係で争い,最終的に先生が勝利します。先生は親の遺産によって働かずとも食べていかれる男です。これに対して寺の次男として産まれ,養子に出されたKは,自身で選択した学問のことで実家からも養家からも仕送りを断たれ,きわめて貧しい学生生活を送っている男であるからです。
ただ,平岡とKの間には,もしかしたら相違点があるといえるかもしれません。平岡は間違いなく自分が経済的困窮に陥っているということに自覚的です。ですから代助に対して脅迫まがいのことまでして金銭を要求します。だから平岡は『明暗』の小林の前身たり得る存在です。しかし,Kがそれに自覚的であったとはいえないかもしれません。Kは確かに先生と同居するようになり,その家賃は先生が支払っていましたが,これは先生の方から提案したものであり,Kがそれを望んでいたわけではありません。また,家賃を支払ってもらっているということについて,Kは感謝をしているようなふしもありませんし,かといって負い目があるというような態度で先生と接することもありません。むしろ同居以前の困窮生活について先生が遺書に書いているテクストから読解すれば,Kはその生活をむしろ喜んでいるように思えるのです。
Kが自身の貧困についてどのように思っていたのか。遺書のテクストから少し考えてみることにします。
これでスピノザがなぜ第二部定理四九備考のような主張をすることができたかが明らかになります。もし観念ideaの集積である知性intellectusが,真の観念idea veraだけを意味するのであれば,意志voluntasは観念より広くわたることになります。なぜなら現実的に存在する人間の知性は真の観念だけの集積であることはあり得ず,真の観念と誤った観念の両方の集積なので,誤った観念を肯定ないしは否定する意志作用volitioの分だけ意志の範囲は知性の範囲を上回るからです。しかし真の観念を肯定ないしは否定する意志も,誤った観念を肯定あるいは否定する意志も,その観念がなければあることも考えることもできません。よってある人間の知性のうちに観念が発生することを一般的に思惟する力potentiaと見る限り,その思惟する力を超越する意志は存在し得ません。つまり超越的意志は存在し得ないのであり,それがこの備考のこの部分における主眼であることになります。
ところで,観念と意志の関係をこのようなものとして規定する場合には,別の問題が発生します。それは,上述の文脈に照合していうならば,人間の思惟する力の源泉がどこにあるのかということです。もしも観念を超越した意志があるというのであれば,その意志が思惟する力すなわち人間の知性が観念を形成する力の源泉となり得るでしょう。『スピノザ 共同性のポリティクス』に示されていた,意志の行使と理性ratioの間に関係があるという哲学的伝統は,このような見解に則しています。つまり人間が理性を行使する力の源泉として,人間の知性の意志する力を該当させているのです。ところがスピノザの哲学においては知性と意志が同一とみなされるのですから,このように規定することはできません。なので人間が理性を行使するならその源泉がどこにあるのかということ,そしてもっと一般的に,人間が思惟するというときの思惟する力の源泉がどこにあるのかということが,規定され直さなければならないのです。
スピノザは『短論文Korte Verhandeling van God / de Mensch en deszelfs Welstand』では認識cognitioは純粋な受動であると規定していて,この考え方が基本的に変化していないというのが僕の見方でした。ただし,これを正しく解するためには注意しなければならないことがあります。
こうした関係は,『こころ』にも受け継がれているのだと解釈することができます。『こころ』では先生とKが静を巡っての三角関係で争い,最終的に先生が勝利します。先生は親の遺産によって働かずとも食べていかれる男です。これに対して寺の次男として産まれ,養子に出されたKは,自身で選択した学問のことで実家からも養家からも仕送りを断たれ,きわめて貧しい学生生活を送っている男であるからです。
ただ,平岡とKの間には,もしかしたら相違点があるといえるかもしれません。平岡は間違いなく自分が経済的困窮に陥っているということに自覚的です。ですから代助に対して脅迫まがいのことまでして金銭を要求します。だから平岡は『明暗』の小林の前身たり得る存在です。しかし,Kがそれに自覚的であったとはいえないかもしれません。Kは確かに先生と同居するようになり,その家賃は先生が支払っていましたが,これは先生の方から提案したものであり,Kがそれを望んでいたわけではありません。また,家賃を支払ってもらっているということについて,Kは感謝をしているようなふしもありませんし,かといって負い目があるというような態度で先生と接することもありません。むしろ同居以前の困窮生活について先生が遺書に書いているテクストから読解すれば,Kはその生活をむしろ喜んでいるように思えるのです。
Kが自身の貧困についてどのように思っていたのか。遺書のテクストから少し考えてみることにします。
これでスピノザがなぜ第二部定理四九備考のような主張をすることができたかが明らかになります。もし観念ideaの集積である知性intellectusが,真の観念idea veraだけを意味するのであれば,意志voluntasは観念より広くわたることになります。なぜなら現実的に存在する人間の知性は真の観念だけの集積であることはあり得ず,真の観念と誤った観念の両方の集積なので,誤った観念を肯定ないしは否定する意志作用volitioの分だけ意志の範囲は知性の範囲を上回るからです。しかし真の観念を肯定ないしは否定する意志も,誤った観念を肯定あるいは否定する意志も,その観念がなければあることも考えることもできません。よってある人間の知性のうちに観念が発生することを一般的に思惟する力potentiaと見る限り,その思惟する力を超越する意志は存在し得ません。つまり超越的意志は存在し得ないのであり,それがこの備考のこの部分における主眼であることになります。
ところで,観念と意志の関係をこのようなものとして規定する場合には,別の問題が発生します。それは,上述の文脈に照合していうならば,人間の思惟する力の源泉がどこにあるのかということです。もしも観念を超越した意志があるというのであれば,その意志が思惟する力すなわち人間の知性が観念を形成する力の源泉となり得るでしょう。『スピノザ 共同性のポリティクス』に示されていた,意志の行使と理性ratioの間に関係があるという哲学的伝統は,このような見解に則しています。つまり人間が理性を行使する力の源泉として,人間の知性の意志する力を該当させているのです。ところがスピノザの哲学においては知性と意志が同一とみなされるのですから,このように規定することはできません。なので人間が理性を行使するならその源泉がどこにあるのかということ,そしてもっと一般的に,人間が思惟するというときの思惟する力の源泉がどこにあるのかということが,規定され直さなければならないのです。
スピノザは『短論文Korte Verhandeling van God / de Mensch en deszelfs Welstand』では認識cognitioは純粋な受動であると規定していて,この考え方が基本的に変化していないというのが僕の見方でした。ただし,これを正しく解するためには注意しなければならないことがあります。