スピノザの『エチカ』と趣味のブログ

スピノザの『エチカ』について僕が考えていることと,趣味である将棋・競馬・競輪などについて綴るブログです。

第四部定理六四系&方法論的懐疑

2017-04-22 19:27:51 | 哲学
 第四部定理六四には帰結事項として系Corollariumが示されています。帰結事項ですから証明Demonstratioはありません。
                                     
 「この帰結として,人間の精神は,もし妥当な観念しか有しないとしたら,悪に関するいかなる概念も形成しないであろうということになる」。
 この系は,悪malumの認識cognitioが十全な認識ではないということ,同じことですが混乱した認識であるということから帰結するので,悪に関してだけ言及されています。ですがもしも人間の精神mens humanaが十全な観念idea adaequataだけを有するとすれば,単に悪に関するいかなる概念notioも形成しないだけでなく,善bonumに関するいかなる概念も形成することはないでしょう。なぜなら,スピノザの哲学でいう善悪は,複数のものの比較なしには認識するcognoscereことができない概念なのですから,悪の概念を形成できないのであれば善の概念も形成することはできないからです。もちろん,第四部定理八にあるように,善とは意識された喜びlaetitiaであり,意識される限りで大きな喜びと小さな喜びがありますから,大きな喜びを妨げる小さな喜びを悪と認識することが可能であるとはいえますが,この解釈を適用すると,十全な認識しか有さない場合でも悪を認識できるといわざるを得ず,ここではむしろ,人間の精神は事物を十全に認識する限りでは喜びを感じても悲しみtristitiaを感じることはないということが強調されていると解するべきです。
 一方,スピノザは第四部定理二七では,我々は我々の認識を妨害し得るものを悪であると確知するcerto scimusといっていました。したがってもし僕たちが,ある事物は僕たちがほかの事物を十全に認識することを妨害すると理性的に判断したなら,その事物を悪と認識するといっているように思えます。すると僕たちは事物を十全に認識する限りでも悪の概念を形成するということになり,これはこの系と矛盾してしまうことになります。
 この矛盾の適当な解消方法は僕には分からないです。ただ,人間の精神は事物を十全に認識するなら,たとえそれが十全な認識を妨害するようなものの認識であったとしても悲しみを感じることはありません。つまり原則は第四部定理六四や系の方にあることは間違いないと思います。

 精緻さと正確さをやや欠く面があるかもしれませんが,ここでは自己の何たるかをスピノザの哲学と比較するということを目的として,デカルトRené Descartesの方法論的懐疑doute méthodiqueとその結論を,以下のようなものであると規定します。
 デカルトは哲学を開始するにあたって,絶対に否定することができないような確実性certitudoを有する観念ideaが必要と考えました。そのこと自体はスピノザが『知性改善論Tractatus de Intellectus Emendatione』で目指そうとしたことと同じであるといえますから,デカルトが不当なことを追求しようとしたことにはなりません。
 このためにデカルトは,たとえ確実であると思えるようなことであっても,もしもそれに疑問を呈することができるならばそれを疑い,確実であるとは認定しないようにしました。このような行為はスピノザからみると方法論の悪用ということになります。ことばと観念とが異なるということを無視して,ある観念をことばの上で疑うことが可能であれば,いかにその観念が真理veritasであると思われようと,確実であると認定しないような行為と等しいからです。ですがこのことは今はさしたる問題ではありません。デカルトはデカルトの方法によって確実性を追求したのであり,それは少なくともデカルトの方法論としては正当性を欠くものではなかったとしておきます。
 このようにすべての事柄について疑ってみたときに,デカルトには確かに疑うことができないことが発見されました。それは,すべてのことを疑っている,あるいは疑おうとしている自分が存在しているということでした。そこでデカルトはそれは絶対に否定できない確実なことであると認定し,確実性の第一の規準としたのです。これが一般に「我思うゆえに我ありcogito, ergo sum」と和訳されている規準です。
 この方法から理解できるのは,確かにスピノザが『デカルトの哲学原理Renati des Cartes principiorum philosophiae pars Ⅰ,et Ⅱ, more geometrico demonstratae』で言及しているように,この発見は三段論法ではないということです。すなわち,疑うということはあるということだという前提があり,我は疑っているから我はあると結論されているのではありません。疑っている我が存在している,つまり我は疑いつつあるego sum cogitansというのが方法論的懐疑の正しい結論であるといわなければなりません。
コメント
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