プロレスという競技においてショルダースルーという技が繰り出されるとき,そこにはいくつかのパターンに分類することができる攻防があります。僕は3つに分けましたが,もっと細分化することも可能でしょう。これらはいずれもショルダースルーから次の展開へと至るものです。それとは別に,別の行の技の攻防からショルダースルーへと至り,その後でショルダースルーを巡る攻防がみられることがあるというパターンもプロレスにはあります。その代表がパイルドライバーを巡る攻防です。ここでは代表的なものとしてパイルドライバーにしましたが,パワーボムのような技の場合でもこれと同じです。
パイルドライバーは,前屈みにさせた相手の腹部に手を回して抱え上げ,股に挟んで頭から落とす技です。パワーボムとは投げ方が異なるだけで技に入る体勢は同一です。このとき,仕掛けられた選手が持ち上げられまいと踏ん張って逆に上体を起こすと,技を掛けようとしていた選手が背中越しに回転して倒れることになります。これはショルダースルーで投げられるのと技の形としては同一です。
馬場はファミリー軍団を形成し,第一戦から身を退いた後でも,年に何度かは三沢光晴,川田利明,小橋建太,田上明といったいわゆる四天王と対戦していました。夢のカードなどはそのひとつです。そしてこの時代,こうした試合において馬場が小橋にパイルドライバーを仕掛け,踏ん張った小橋が馬場にショルダースルーを見舞うという攻防はありました。
馬場とハンセンの初対決のときに不沈艦が仕掛けた馬場へのショルダースルーを馬場は受けましたが,さすがにこの時代の馬場は,ロープの反動を利用したショルダースルーは受けることができなくなっていただろうと推測します。パイルドライバーから生じるものとはスピードが違い,受けるダメージも異なるだろうからです。ですがパイルドライバーを返される形のショルダースルーなら,まだ受けることができたのです。これはこれで馬場の運動神経のよさを証明するような攻防だったと僕は思っています。
現実的に存在する人間の精神mens humanaの現実的有actuale esseの一部は,必然的に共通概念notiones communesという十全な観念によって組織されています。なので第二部定理四〇が現実的に有意味である最低条件は満たされています。実際には第二部定理三八系でこのことが示されていて,各々の定理の配置からも分かるように,スピノザは人間の精神のうちに十全な観念があるということを前提していたからこそ,十全な観念を原因として生起するすべての観念ideaは十全であるということができたというべきでしょう。
精神のうちに十全な観念があるということが,僕たちが真理獲得の方法を知っているということを同時に意味したのでした。つまり僕たちは真理獲得の方法もまた知っているのです。なかんずく,第二部定理四〇で示されているような現象が人間の精神のうちに生じる場合にも,それはその人間の意志作用volitioの力potentiaによって生じるのではなく,神Deusの本性の必然性necessitasに則して自動的に生じるのですから,それを意識しているかどうかは別として,僕たちの精神のうちに真理獲得の方法についての十全な観念もあるということは,これによって前提することができます。
ところで,もしも真理獲得の方法を僕たちが知っているならば,僕たちは何が真理veritasであり何が真理ではないつまり虚偽falsitasであるのかということも知っていることになります。方法はそのことを示す筈だからです。いい換えれば,真理は真理獲得の方法を同時に示すということと,真理はそれ自体が真理と虚偽とを区分する規準になるということは同じことでなければなりません。そして,真偽判定の規準が観念の内的特徴denominatio intrinsecaにある以上,それ以外には真理と虚偽を分かつような術はないといわなければならないでしょう。つまり真理が真理である「しるしsignum」というのは,十全な観念それ自身のうちにあるのであって,その観念の対象ideatumのうちにはないということになります。いい換えれば,十全な観念はそれ自身が真理の「しるし」であるのです。アルベルトAlbert Burghが書簡六十七で真理の「しるし」を観念の外に求めたのに対し,書簡七十六でスピノザがそれを否定したやり取りも,こうしたスピノザの哲学的見解に依拠しているということができるでしょう。
パイルドライバーは,前屈みにさせた相手の腹部に手を回して抱え上げ,股に挟んで頭から落とす技です。パワーボムとは投げ方が異なるだけで技に入る体勢は同一です。このとき,仕掛けられた選手が持ち上げられまいと踏ん張って逆に上体を起こすと,技を掛けようとしていた選手が背中越しに回転して倒れることになります。これはショルダースルーで投げられるのと技の形としては同一です。
馬場はファミリー軍団を形成し,第一戦から身を退いた後でも,年に何度かは三沢光晴,川田利明,小橋建太,田上明といったいわゆる四天王と対戦していました。夢のカードなどはそのひとつです。そしてこの時代,こうした試合において馬場が小橋にパイルドライバーを仕掛け,踏ん張った小橋が馬場にショルダースルーを見舞うという攻防はありました。
馬場とハンセンの初対決のときに不沈艦が仕掛けた馬場へのショルダースルーを馬場は受けましたが,さすがにこの時代の馬場は,ロープの反動を利用したショルダースルーは受けることができなくなっていただろうと推測します。パイルドライバーから生じるものとはスピードが違い,受けるダメージも異なるだろうからです。ですがパイルドライバーを返される形のショルダースルーなら,まだ受けることができたのです。これはこれで馬場の運動神経のよさを証明するような攻防だったと僕は思っています。
現実的に存在する人間の精神mens humanaの現実的有actuale esseの一部は,必然的に共通概念notiones communesという十全な観念によって組織されています。なので第二部定理四〇が現実的に有意味である最低条件は満たされています。実際には第二部定理三八系でこのことが示されていて,各々の定理の配置からも分かるように,スピノザは人間の精神のうちに十全な観念があるということを前提していたからこそ,十全な観念を原因として生起するすべての観念ideaは十全であるということができたというべきでしょう。
精神のうちに十全な観念があるということが,僕たちが真理獲得の方法を知っているということを同時に意味したのでした。つまり僕たちは真理獲得の方法もまた知っているのです。なかんずく,第二部定理四〇で示されているような現象が人間の精神のうちに生じる場合にも,それはその人間の意志作用volitioの力potentiaによって生じるのではなく,神Deusの本性の必然性necessitasに則して自動的に生じるのですから,それを意識しているかどうかは別として,僕たちの精神のうちに真理獲得の方法についての十全な観念もあるということは,これによって前提することができます。
ところで,もしも真理獲得の方法を僕たちが知っているならば,僕たちは何が真理veritasであり何が真理ではないつまり虚偽falsitasであるのかということも知っていることになります。方法はそのことを示す筈だからです。いい換えれば,真理は真理獲得の方法を同時に示すということと,真理はそれ自体が真理と虚偽とを区分する規準になるということは同じことでなければなりません。そして,真偽判定の規準が観念の内的特徴denominatio intrinsecaにある以上,それ以外には真理と虚偽を分かつような術はないといわなければならないでしょう。つまり真理が真理である「しるしsignum」というのは,十全な観念それ自身のうちにあるのであって,その観念の対象ideatumのうちにはないということになります。いい換えれば,十全な観念はそれ自身が真理の「しるし」であるのです。アルベルトAlbert Burghが書簡六十七で真理の「しるし」を観念の外に求めたのに対し,書簡七十六でスピノザがそれを否定したやり取りも,こうしたスピノザの哲学的見解に依拠しているということができるでしょう。