昨日の第58期王位戦挑戦者決定戦。対戦成績は菅井竜也七段が3勝,澤田真吾六段が2勝。これまでの5局のうち3局が千日手指し直しで,指し直し局3局のうち1局はまた千日手になっていました。
振駒で菅井七段の先手。澤田六段から角を交換する形での先手の角交換向飛車に。澤田六段は左美濃にして持久戦。先手が細かく動いてポイントをあげていったのではないかと思われます。
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/0f/b6/68faa8a8344d0252a5ab32b23f2cf193.png)
1九にいた飛車が寄った局面。1筋に回ることで後手の金を2三に上げさせたのでそこではお役御免。今度は4筋から動いていこうという意図でしょう。
後手はここで☖9四角と打ちました。状況が芳しくないとみて勝負をしにいったのだと思います。ですが動かずに待っていた方がここではよかったのかもしれません。
先手は☗7九飛と回りました。すぐに☖7六角と取るのは☗6五桂が角と桂馬の両取りになってしまうので☖7二銀と引いて受けました。
この間に先手は☗4六歩☖同歩☗同銀で一歩を入手。後手はここで☖7六角ですが☗6五桂と跳ね仕方がない☖8七角成に☗7三桂成☖同銀と桂馬を捌いて☗4五歩と4筋を制圧しました。
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/1d/b1/40be67dfd9c090e0eed2a7d16d666095.png)
後手は馬を作ることはできたものの先手の桂馬が捌けて4筋の位を奪ったポイントの方が大きかったようです。ここでは後手も待っていられないので☖4五同桂と取っていきましたが,うまく対応した先手が押し切りました。
菅井七段が挑戦者に。タイトル戦は初出場となります。
第四部序言の文章は,それが存在existentiaに決定される原因と働きactioに決定される原因は,神Deusにあっても自然にあっても同一であるといっていると解釈できないこともありません。この一文が含まれている段落は,神が何らかの目的のために存在したり働いたりするのではないということを示すことを主眼としているといえ,その脈絡から僕はこの解釈は採用しませんが,もしこのように解釈されるのであっても,神は能産的自然Natura Naturansとだけ等置されなければならないということがいえると僕は考えます。
この解釈によれば,等置されているのは主語の部分ではなく,述語の部分であることになります。つまり存在する原因と働く原因が等置されているのです。そしてその場合には,主語が神であれ自然であれ同じ述語によって説明できるということになるので,主語の部分は等置されていようとされていまいと関係ありません。というよりも,述語部分が等置できるのであれば,主語の部分は等置されていない方が,よりその主張を明瞭にできる筈ですから,等置されていないと解釈する方が安全であるとさえいえるでしょう。
したがって,このように解釈される場合に実際に何が等置されているかといえば,あるものが存在に決定される原因の規則と働きに決定される原因の規則が同一であるということです。実際にはその規則はスピノザの哲学においては神の本性の必然性つまり法則であるということになります。ということは,このような解釈から帰結するのは,二種類の因果性は存在しないということになるでしょう。いい換えれば,神が存在および働きに決定される原因と,自然が存在および働きに決定される原因とは,同一の原因であるということです。
すでに何度か示したように,僕は『エチカ』には二種類の因果性があるわけではなく,垂直と水平の因果性は同一の因果性であると考えます。ですが,第四部序言のこの部分がスピノザがそのことを主張している根拠になるとは考えません。僕はこの解釈をこの部分に対しては採用しないからです。ただ,神と等置することができる自然は,能産的自然に限られるということは,どちらの場合でも同じだといっておきます。
振駒で菅井七段の先手。澤田六段から角を交換する形での先手の角交換向飛車に。澤田六段は左美濃にして持久戦。先手が細かく動いてポイントをあげていったのではないかと思われます。
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1九にいた飛車が寄った局面。1筋に回ることで後手の金を2三に上げさせたのでそこではお役御免。今度は4筋から動いていこうという意図でしょう。
後手はここで☖9四角と打ちました。状況が芳しくないとみて勝負をしにいったのだと思います。ですが動かずに待っていた方がここではよかったのかもしれません。
先手は☗7九飛と回りました。すぐに☖7六角と取るのは☗6五桂が角と桂馬の両取りになってしまうので☖7二銀と引いて受けました。
この間に先手は☗4六歩☖同歩☗同銀で一歩を入手。後手はここで☖7六角ですが☗6五桂と跳ね仕方がない☖8七角成に☗7三桂成☖同銀と桂馬を捌いて☗4五歩と4筋を制圧しました。
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後手は馬を作ることはできたものの先手の桂馬が捌けて4筋の位を奪ったポイントの方が大きかったようです。ここでは後手も待っていられないので☖4五同桂と取っていきましたが,うまく対応した先手が押し切りました。
菅井七段が挑戦者に。タイトル戦は初出場となります。
第四部序言の文章は,それが存在existentiaに決定される原因と働きactioに決定される原因は,神Deusにあっても自然にあっても同一であるといっていると解釈できないこともありません。この一文が含まれている段落は,神が何らかの目的のために存在したり働いたりするのではないということを示すことを主眼としているといえ,その脈絡から僕はこの解釈は採用しませんが,もしこのように解釈されるのであっても,神は能産的自然Natura Naturansとだけ等置されなければならないということがいえると僕は考えます。
この解釈によれば,等置されているのは主語の部分ではなく,述語の部分であることになります。つまり存在する原因と働く原因が等置されているのです。そしてその場合には,主語が神であれ自然であれ同じ述語によって説明できるということになるので,主語の部分は等置されていようとされていまいと関係ありません。というよりも,述語部分が等置できるのであれば,主語の部分は等置されていない方が,よりその主張を明瞭にできる筈ですから,等置されていないと解釈する方が安全であるとさえいえるでしょう。
したがって,このように解釈される場合に実際に何が等置されているかといえば,あるものが存在に決定される原因の規則と働きに決定される原因の規則が同一であるということです。実際にはその規則はスピノザの哲学においては神の本性の必然性つまり法則であるということになります。ということは,このような解釈から帰結するのは,二種類の因果性は存在しないということになるでしょう。いい換えれば,神が存在および働きに決定される原因と,自然が存在および働きに決定される原因とは,同一の原因であるということです。
すでに何度か示したように,僕は『エチカ』には二種類の因果性があるわけではなく,垂直と水平の因果性は同一の因果性であると考えます。ですが,第四部序言のこの部分がスピノザがそのことを主張している根拠になるとは考えません。僕はこの解釈をこの部分に対しては採用しないからです。ただ,神と等置することができる自然は,能産的自然に限られるということは,どちらの場合でも同じだといっておきます。