スピノザの『エチカ』と趣味のブログ

スピノザの『エチカ』について僕が考えていることと,趣味である将棋・競馬・競輪などについて綴るブログです。

国際競技支援競輪&先行と同時

2017-06-11 19:26:30 | 競輪
 被災地支援競輪として大垣競輪場で開催された国際自転車トラック競技支援競輪の決勝。並びはボス‐パーキンス‐ドミトリエフの外国勢,佐藤友和‐佐藤康紀の北日本,高橋‐小林の愛知に伊勢崎で東は単騎。
 佐藤が迷いなくスタートを取って前受け。3番手に高橋,6番手にボス,最後尾に東で周回。残り3周のバックからコーナーに差し掛かるところで東が動き,パーキンスの外で併走。ホームから高橋が佐藤康紀との車間を,ボスが伊勢崎との車間を徐々に開け始めました。バックに入ってからボスが発進し,これに合わせて高橋も発進。外のボスが叩いて打鐘になりましたが,競り合っていたパーキンスと東は共に追えず,高橋がボスの後ろに。競り勝ったパーキンスが3番手で,引いた佐藤友和がその後ろ。さらにここにドミトリエフも追い上げてきました。バックの手前からパーキンスが発進。バックでは捲り切って先頭に。流れ上はパーキンスをマークする形になった佐藤友和が内で粘る高橋を振り切り,直線では差を詰めるも届かず,優勝はパーキンス。半車輪差で佐藤が2着。直線で高橋を捕えたドミトリエフが1車身差の3着。
 優勝したオーストラリアのシェーン・パーキンス選手は昨年9月の支援競輪も優勝していて記念競輪級2勝目。この開催はこの後の高松宮記念杯競輪に出走する選手の出場がなく,外国人勢に対抗できる日本人選手が不在。対抗するべく二段駆けのようなラインにもならなかったので,パーキンスにとってはとても有利だろうと思われました。それでも東が勝ちにいく競走をみせたために展開がかなり縺れ,優勝とはいえかなり苦しい内容に。パターンとしていえば勝てない展開で,それを立て直して3番手から捲っていったのは脚力の証明です。ただ,もっと強力な日本人選手が存在した場合には,このような展開になると脚力に違いがあるといえども勝つことは難しいのだろうとも思える内容でした。

 もうひとつ,『スピノザの哲学』において僕が気になった記述は第五章の第四部にあります。桂はそこで,スピノザの思想は人格神を否定するものであるけれど,人格的に神Deusを認識した思想の影響は受けていて,それによって,スピノザの思想では観念ideaが事物に先行するか少なくとも同時であるということが要求されていると読解できる主旨のことがいわれています。
                                     
 僕はスピノザの思想の背景といった事柄についてはあまり重視しません。スピノザの哲学がデカルトの哲学の影響を受けているということは紛れもない事実だと思いますが,影響を受けた思想がほかにもあったであろうことはまた同じように事実であると考えるべきだと思います。桂は当該部分で,人格的に神を認識した人物としてアウグスティヌスの名前を出しています。スピノザがアウグスティヌスの思想の影響を受けたのかどうかは僕には分かりませんが,このことが事実であるかどうかということは僕は問題とはしません。ただ,観念が事物に対して,これは客観的有esse objectivumが形相的有esse formaleに対してという方がより桂の主張の主旨が鮮明になると思うので僕はそちらのいい方を用いますが,客観的有が形相的有に対して先行するか少なくとも同時であるという点については,記述のあり方として大いに問題視します。というのもそれが先行するのか同時であるのかということは,桂の記述にあるように並列的に示すことができるわけではなく,そこの部分の相違自体を問題としなければならないと考えるからです。
 おそらくここで桂がいいたかったのは,形相的有が客観的有に先行するという考え方がスピノザの哲学にはないということなのでしょう。だから客観的有が形相的有に対して先行するということと同時であるということを並べたのだと思われます。たぶん桂は,一般的には形相的有がまず存在して,それが知性intellectusによって認識されることによって客観的有が発生すると思われている,つまり形相的有は客観的有に対して先行すると思われているというような認識をもっていて,それがスピノザの哲学では否定されていると強く主張したかったのだと思われます。これは桂の時代認識なので,僕は度外視します。
コメント
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