スピノザの『エチカ』と趣味のブログ

スピノザの『エチカ』について僕が考えていることと,趣味である将棋・競馬・競輪などについて綴るブログです。

農林水産大臣賞典日刊スポーツ賞北海道スプリントカップ&神即自然

2017-06-09 19:06:06 | 地方競馬
 昨晩の第21回北海道スプリントカップ
 最初は3頭が並んでいましたが最内にいたニシケンモノノフが単独でハナへ。これをアウヤンテプイとコールサインゼロが並んで追う形に。ゴーイングパワーが4番手でショコラブランが5番手。ウルトラカイザー,メイショウノーベルの順で追い,中団にスザクとシセイカイカ。さらにケイリンボスとスノードラゴンが追走。このあたりまで馬群は密集していました。前半の600mが33秒8のミドルペース。
 3コーナーを回るとゴーイングパワーが内から進出して2番手にいた2頭と並んでニシケンモノノフの後ろが3頭で雁行。ショコラブランはコールサインゼロのさらに外へ。直線に入るとコーナーワークで後ろとの差をやや広げたニシケンモノノフがそこでつけた差をさらにワンサイドで広げていき,最後は4馬身の差をつけるレコードタイムで圧勝。外のショコラブランのさらに外からスノードラゴンが伸びてきて,白い馬が並んで2着争いになりましたが,追撃を凌いだショコラブランが2着は確保。スノードラゴンはクビ差で3着。
 優勝したニシケンモノノフ兵庫ゴールドトロフィー以来の勝利で重賞3勝目。近況と実績からは勝つ可能性が最も高い馬と考えていましたが,こんなに差をつけることができるとは思っていませんでした。自分のペースで走ることができたことがその最大の要因だったのでしょうか。おそらくタイムが早くなる馬場状態の方が適性が高く,1400mでの実績が目立ってはいましたが,1200mの方がよかったのかもしれません。父はメイショウボーラー。三代母の半弟に1985年の大阪杯を勝ったステートジャガー
 騎乗した横山典弘騎手と管理している庄野靖志調教師は北海道スプリントカップ初勝利。

 自然を二分化して考えるのは,スピノザの哲学に独特の解釈ではありません。おそらくスピノザはそれを,スコラ哲学から受け継いだと思われます。その二分法というのは,産出する自然としての能産的自然Natura Naturansと,産出される自然としての所産的自然Natura Naturataです。ただし,スピノザはそれらが具体的に何を意味しなければならないかということについては,内容を一新しました。つまり語句だけは受け継いだのだけれども,その語句が意味しなければならないことについては受け継がなかったのです。
                                     
 では能産的自然と所産的自然とをどのように解さなければならないとスピノザが考えていたのかといえば,それは第一部定理二九備考に示されている通りです。そしてこの備考Scholiumを読めば明白なように,すでにスピノザは『エチカ』のこの時点で,神Deusと能産的自然とを等置しています。しかし所産的自然については,神の属性attributumの様態modusと等置されているのですから,神そのものとは等置されていないといわなければなりません。すなわち能産的自然が神自身であるとすれば,所産的自然とは神自身というより様態的変状modificatioに様態化した限りでの神であるといわなければならないのです。
 したがって,第四部序言において神あるいは自然Deus sive Naturaといういい方で神が自然と等置されるとき,それは能産的自然のことであって,所産的自然のことではないのではないかと僕は考えます。よって,この部分でスピノザが神即自然といっていて,なおかつそれを汎神論と結び付けることが可能であるということについては僕は否定はしませんが,その場合にも神即自然といわれるときの自然とは自然一般,いい換えれば能産的自然と所産的自然を含む全自然というように解するのは適切ではなく,能産的自然だけを意味すると解するのが適切なのだと考えます。
 ただし,第四部序言で神あるいは自然といわれている部分の文章の全体は,解釈の視座を変更した場合には,そこでいわれている自然というのが,能産的自然だけを意味するのではなくて,所産的自然まで含んだ全自然であると解せることも僕は認めます。ですがその場合には,神と自然は等置されているわけではないという解釈が必要だと思います。
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