第7期女流王座戦五番勝負第五局。
振駒で里見香奈女流王座の先手になり5筋位取り中飛車。加藤桃子女王は超速銀で対抗し6筋で銀が向い合う形。先手から仕掛けて中央で華々しい戦いに。後手の対応にわずかな誤りがあったようで,途中からは先手が優位に立っていたものと思います。
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/17/31/fcf96d9bfb05a5df8b74995909e4e8c8.png)
先手が手厚く銀を打ち込んだ局面。ここで後手は☖7九飛と打ちました。これは攻めの手というよりも☗5九歩と打たせて先手が5筋で歩を使って攻めるのを緩和するという受けの意味合いが強い手であったと思います。ただここにしか飛車の打ち場所がなかったのが後から響いてくることに。
歩を使わせたので後手は☖4三銀と取って☗同銀成に☖9二飛と逃げました。ただ最も遠くに逃げたことで後に直接的に狙われることになります。
先手は☗4四銀と進出して後手は☖5五歩と受けました。そこで☗8三銀が飛車を端に逃げたために生じた手。以下☖9三飛☗8二銀不成☖8三飛☗7三銀成☖同飛で後手の飛車は働きが弱い駒に。さらに入手した桂馬を☗3三桂と打ちました。
ここから☖同桂☗同銀成☖3二銀と進めたのはおそらく後手としては最善の頑張り。ですが☗2二成銀☖同玉のときに,後手が7九に飛車を打たざるを得なかったために☗8八角打という手が生じてしまいました。
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/55/5e/b4ad0189bf6fd40a9b68c0789853d688.png)
これは☖8九飛車成と逃げると☗5五角☖同金☗同角の王手飛車で,後手が受けて先手が飛車を取ったときに先手を上回る早い攻めが後手にはありません。なので☖7七飛成と取るほかなかったのですが☗同桂と取り返すのが,一時的に角筋を止めても金取りの先手で,後に☗8五桂と飛車取りにも跳ね出せる一手。こううまい手順が続いては先手がはっきりとよくなりました。
3勝2敗で里見女流王座が防衛。第3期,6期に続く連覇で通算3期目の女流王座です。
スピノザ主義者がスピノザの思想とともに狂ってしまうのは,理性への過信の一種とみることができます。理性ratioはそれ自体では感情affectusを抑制することはできません。自分の感情を抑制することができないのですから,排他的思想を有する人びとの排他的感情を抑制することはなおのことできないことを踏まえておかなければなりません。ただ,現実的に存在する人間は,往々にしてこの種の過ち,すなわち自身の信じているものを過信してそれととともに狂ってしまうという過ちを犯します。一例をあげておきましょう。
タリバーンという似非イスラム主義者たち,僕はあのような思想をイスラム思想とは認めませんので,似非イスラム主義者といっておきますが,かれらは数々の宗教的遺産を破壊するという行動に出ました。かれらによればそれは,イスラムが偶像崇拝を禁じているからだそうです。
しかし僕の考えでいえば,かれらはかれらが信ずる偶像崇拝の禁止という思想ないしは教えとともに狂っているのです。そして彼らが具体的にどのように狂っているかといえば,かれらが偶像というものを形あるものだと思い込んでいる点にあります。つまり偶像とは知性intellectusの外にある形相的有esse formaleであるとかれらは思い込んでいるのです。ですがそれはあり得ないです。偶像というのは精神mensのうちにもある,もっといえば知性の外により知性のうちに客観的有esse objectivumとしてあるものなのです。実際,何らかの形あるもの,たとえば宗教的偶像を形成してそれを拝むことは,確かに偶像崇拝であるといえるでしょう。しかしそれは,その崇拝者たちが,その宗教的偶像が信仰fidesの対象になるというように思い込んでいるから成立しているのであって,この意味では偶像はむしろ崇拝者の精神のうちにあるのです。
そこでこの崇拝をやめさせるために宗教的偶像を破壊するという行為は,宗教的偶像を内面的に偶像化している崇拝者たちとはちょうど逆の形で偶像を内面化させていることになります。端的にいえばタリバーンにとっては,かれらの信じている偶像崇拝を禁止するという教え自体が精神のうちで偶像となっているのです。つまりタリバーンはその教えとともに狂っているのです。
振駒で里見香奈女流王座の先手になり5筋位取り中飛車。加藤桃子女王は超速銀で対抗し6筋で銀が向い合う形。先手から仕掛けて中央で華々しい戦いに。後手の対応にわずかな誤りがあったようで,途中からは先手が優位に立っていたものと思います。
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先手が手厚く銀を打ち込んだ局面。ここで後手は☖7九飛と打ちました。これは攻めの手というよりも☗5九歩と打たせて先手が5筋で歩を使って攻めるのを緩和するという受けの意味合いが強い手であったと思います。ただここにしか飛車の打ち場所がなかったのが後から響いてくることに。
歩を使わせたので後手は☖4三銀と取って☗同銀成に☖9二飛と逃げました。ただ最も遠くに逃げたことで後に直接的に狙われることになります。
先手は☗4四銀と進出して後手は☖5五歩と受けました。そこで☗8三銀が飛車を端に逃げたために生じた手。以下☖9三飛☗8二銀不成☖8三飛☗7三銀成☖同飛で後手の飛車は働きが弱い駒に。さらに入手した桂馬を☗3三桂と打ちました。
ここから☖同桂☗同銀成☖3二銀と進めたのはおそらく後手としては最善の頑張り。ですが☗2二成銀☖同玉のときに,後手が7九に飛車を打たざるを得なかったために☗8八角打という手が生じてしまいました。
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これは☖8九飛車成と逃げると☗5五角☖同金☗同角の王手飛車で,後手が受けて先手が飛車を取ったときに先手を上回る早い攻めが後手にはありません。なので☖7七飛成と取るほかなかったのですが☗同桂と取り返すのが,一時的に角筋を止めても金取りの先手で,後に☗8五桂と飛車取りにも跳ね出せる一手。こううまい手順が続いては先手がはっきりとよくなりました。
3勝2敗で里見女流王座が防衛。第3期,6期に続く連覇で通算3期目の女流王座です。
スピノザ主義者がスピノザの思想とともに狂ってしまうのは,理性への過信の一種とみることができます。理性ratioはそれ自体では感情affectusを抑制することはできません。自分の感情を抑制することができないのですから,排他的思想を有する人びとの排他的感情を抑制することはなおのことできないことを踏まえておかなければなりません。ただ,現実的に存在する人間は,往々にしてこの種の過ち,すなわち自身の信じているものを過信してそれととともに狂ってしまうという過ちを犯します。一例をあげておきましょう。
タリバーンという似非イスラム主義者たち,僕はあのような思想をイスラム思想とは認めませんので,似非イスラム主義者といっておきますが,かれらは数々の宗教的遺産を破壊するという行動に出ました。かれらによればそれは,イスラムが偶像崇拝を禁じているからだそうです。
しかし僕の考えでいえば,かれらはかれらが信ずる偶像崇拝の禁止という思想ないしは教えとともに狂っているのです。そして彼らが具体的にどのように狂っているかといえば,かれらが偶像というものを形あるものだと思い込んでいる点にあります。つまり偶像とは知性intellectusの外にある形相的有esse formaleであるとかれらは思い込んでいるのです。ですがそれはあり得ないです。偶像というのは精神mensのうちにもある,もっといえば知性の外により知性のうちに客観的有esse objectivumとしてあるものなのです。実際,何らかの形あるもの,たとえば宗教的偶像を形成してそれを拝むことは,確かに偶像崇拝であるといえるでしょう。しかしそれは,その崇拝者たちが,その宗教的偶像が信仰fidesの対象になるというように思い込んでいるから成立しているのであって,この意味では偶像はむしろ崇拝者の精神のうちにあるのです。
そこでこの崇拝をやめさせるために宗教的偶像を破壊するという行為は,宗教的偶像を内面的に偶像化している崇拝者たちとはちょうど逆の形で偶像を内面化させていることになります。端的にいえばタリバーンにとっては,かれらの信じている偶像崇拝を禁止するという教え自体が精神のうちで偶像となっているのです。つまりタリバーンはその教えとともに狂っているのです。