第7期女流王座戦五番勝負第四局。
加藤桃子女王の先手で,手順に違いはありますが,里見香奈女流王座のごきげん中飛車で①-Aから4筋で銀が向い合う形から先手の穴熊,後手の銀冠という戦型に。戦いが始まりそうなところで互いに自重を重ね,先攻したのは先手になりました。
先手が歩を突いた局面。☖3三角を防がれた後手は☖8六銀と進出しました。先手は☗同角と取って☖同角。
ここでは☗7六飛と取るのも有力だったようですが,後手から8筋の歩を取ってくれたのを生かして☗8四歩と叩いて☖同銀に☗7四銀と打ちました。駒損でも攻め合って勝負になるという読みで,この読み自体は間違っていなかったようです。ですから勝負術としては相手の指し手を逆用した実戦の順でよかったのではないでしょうか。
後手はここで☖8七歩と叩きましたが,類推するとこの手が先手の読みから外れていたようです。☗同銀と取って☖5九角成に☗8八歩と受けました。
駒損でも攻め合いを目指したので,どこかで☗8三歩と打つ手を残しておかなければならないのですが,この受けでそれがなくなってしまいました。これは一貫性を欠いた指し方で,中盤から終盤に入ろうかというところでこういう手順が出てしまうと差がつきます。☗8八歩と受けるところでは☗6四歩と攻め合うのが有力で,それなら均衡は保てていました。誤算があったのは仕方ありませんが,先手がうまく立て直せなかったという一局だったといえるのではないでしょうか。
里見王座が勝って2勝2敗。第五局は22日です。
第四部定理四の意味は,現実的に存在している人間は受動passioを免れ得ないということです。第三部定理五八は,基本感情affectus primariiのうち喜びlaetitiaと欲望cupiditasは必然的にnecessario能動actioに由来するといっているわけではありません。よって僕たちは受動によって喜びを感じることもあれば欲望を感じる場合もあります。たとえば第三部諸感情の定義一二の希望spesや,第三部諸感情の定義二八の高慢superbiaといった喜びは,それぞれの定義Definitioから分かるように,何らかの混乱した観念idea inadaequataに起因する喜びですから,必然的に受動で,能動に由来する希望や高慢はありません。したがって希望や高慢から生じる欲望もまた必然的に受動であり,能動ではあり得ないことになります。
しかしながら,悲しみtristitiaはそれ自体で必然的に受動であるのですから,現実的に存在する人間が悲しみを免れ得ないということは,明らかであるといっていいでしょう。同時にそれは,僕たちが希望を感じずにはいられないとか,高慢を感じずにはいられないというのと同じことであるといえます。
第三部定理一二は,現実的に存在する人間は喜びを希求するということを示しています。逆に第三部定理一三は,現実的に存在する人間は悲しみを忌避するということを示しています。各々の定理Propositioでいわれている活動能力agendi potentiaの増大や減少というのは,完全性perfectioの移行transitioを意味します。小なる完全性から大なる完全性へと移行することが喜びであり,逆に大なる完全性から小なる完全性へと移行することが悲しみであるからです。
次に,こうした活動能力は僕たちが自己の有に固執する傾向すなわち第三部定理七でいわれているコナトゥスConatusであって,それは僕たちの現実的本性actualis essentiaです。そして第三部定理九によって,この現実的本性というのは僕たちが十全な観念idea adaequataを有している場合でも混乱した観念を有している場合でも同じように妥当します。いい換えれば能動であるか受動であるかを問わずに妥当するのです。これでみれば分かるように,僕たちが喜びを希求し悲しみを忌避すること,他面からいえば第四部定理八により僕たちに喜びを齎すものとしての善bonumを希求し悲しみを齎すものとしての悪malumを忌避するということは,人間の現実的本性であるといえるのです。
加藤桃子女王の先手で,手順に違いはありますが,里見香奈女流王座のごきげん中飛車で①-Aから4筋で銀が向い合う形から先手の穴熊,後手の銀冠という戦型に。戦いが始まりそうなところで互いに自重を重ね,先攻したのは先手になりました。
先手が歩を突いた局面。☖3三角を防がれた後手は☖8六銀と進出しました。先手は☗同角と取って☖同角。
ここでは☗7六飛と取るのも有力だったようですが,後手から8筋の歩を取ってくれたのを生かして☗8四歩と叩いて☖同銀に☗7四銀と打ちました。駒損でも攻め合って勝負になるという読みで,この読み自体は間違っていなかったようです。ですから勝負術としては相手の指し手を逆用した実戦の順でよかったのではないでしょうか。
後手はここで☖8七歩と叩きましたが,類推するとこの手が先手の読みから外れていたようです。☗同銀と取って☖5九角成に☗8八歩と受けました。
駒損でも攻め合いを目指したので,どこかで☗8三歩と打つ手を残しておかなければならないのですが,この受けでそれがなくなってしまいました。これは一貫性を欠いた指し方で,中盤から終盤に入ろうかというところでこういう手順が出てしまうと差がつきます。☗8八歩と受けるところでは☗6四歩と攻め合うのが有力で,それなら均衡は保てていました。誤算があったのは仕方ありませんが,先手がうまく立て直せなかったという一局だったといえるのではないでしょうか。
里見王座が勝って2勝2敗。第五局は22日です。
第四部定理四の意味は,現実的に存在している人間は受動passioを免れ得ないということです。第三部定理五八は,基本感情affectus primariiのうち喜びlaetitiaと欲望cupiditasは必然的にnecessario能動actioに由来するといっているわけではありません。よって僕たちは受動によって喜びを感じることもあれば欲望を感じる場合もあります。たとえば第三部諸感情の定義一二の希望spesや,第三部諸感情の定義二八の高慢superbiaといった喜びは,それぞれの定義Definitioから分かるように,何らかの混乱した観念idea inadaequataに起因する喜びですから,必然的に受動で,能動に由来する希望や高慢はありません。したがって希望や高慢から生じる欲望もまた必然的に受動であり,能動ではあり得ないことになります。
しかしながら,悲しみtristitiaはそれ自体で必然的に受動であるのですから,現実的に存在する人間が悲しみを免れ得ないということは,明らかであるといっていいでしょう。同時にそれは,僕たちが希望を感じずにはいられないとか,高慢を感じずにはいられないというのと同じことであるといえます。
第三部定理一二は,現実的に存在する人間は喜びを希求するということを示しています。逆に第三部定理一三は,現実的に存在する人間は悲しみを忌避するということを示しています。各々の定理Propositioでいわれている活動能力agendi potentiaの増大や減少というのは,完全性perfectioの移行transitioを意味します。小なる完全性から大なる完全性へと移行することが喜びであり,逆に大なる完全性から小なる完全性へと移行することが悲しみであるからです。
次に,こうした活動能力は僕たちが自己の有に固執する傾向すなわち第三部定理七でいわれているコナトゥスConatusであって,それは僕たちの現実的本性actualis essentiaです。そして第三部定理九によって,この現実的本性というのは僕たちが十全な観念idea adaequataを有している場合でも混乱した観念を有している場合でも同じように妥当します。いい換えれば能動であるか受動であるかを問わずに妥当するのです。これでみれば分かるように,僕たちが喜びを希求し悲しみを忌避すること,他面からいえば第四部定理八により僕たちに喜びを齎すものとしての善bonumを希求し悲しみを齎すものとしての悪malumを忌避するということは,人間の現実的本性であるといえるのです。