昨年の競輪の表彰選手は22日に発表されました。当ブログに関連する選手を紹介していきます。
最優秀選手賞は大阪の古性優作選手。オールスター,寛仁親王牌,グランプリとビッグを3勝。和歌山記念,松山記念,函館記念,富山記念と記念競輪は4勝。グランプリを勝ってGⅠも2勝ですから当然でしょう。2021年,2023年に続き2年連続3度目のMVP。
優秀選手賞はふたり。まず福井の脇本雄太選手。ウィナーズカップ,競輪祭とビッグは2勝。福井記念,向日町記念と記念競輪は2勝。2018年と2019年に続き優秀選手賞は5年ぶり3度目の受賞。
もうひとりは神奈川の郡司浩平選手。全日本選抜を優勝。川崎記念と小田原記念を制覇。優勝以外の安定した成績でふたり目に滑り込んだ感です。2020年と2021年に続く3度目の優秀選手賞。
優秀新人選手賞は愛知の纐纈洸翔選手。ヤンググランプリを優勝。脚力的にはヤンググランプリ出走選手の中にはもっと上の選手がいましたが,実績を得たことでの受賞でした。
特別関東選手賞は神奈川の北井佑季選手。高松宮記念杯を優勝。北井は選手歴は浅いですが若いわけではないので,これからの数年が本当の勝負どころだと思います。
国際賞とガールズ競輪はこのブログで扱っていないので割愛します。
第一部定理五から内在の哲学が必然的にnecessario帰結することになっているとはいえ,この定理Propositioは僕がいうところの名目的定理であって,複数の実体substantiaが存在することが否定されているわけではありません。実際は第一部定理一四にあるように,実在する実体は神Deusが唯一なのですから,このこと自体に大きな意味がないように感じられるかもしれませんし,このような論理的帰結に何か意味があるようにも思えないかもしれません。なので実在的な意味からも説明を加えておくことにします。
神という実体が唯一の実体として存在しているのですが,この神の本性essentiaは第一部定義六から分かるように,無限に多くの属性infinitis attributisから構成されています。僕たちが認識するcognoscereことができるのは延長の属性Extensionis attributumと思惟の属性Cogitationis attributumですから,僕たちが認識することができない無限に多くの属性があるわけです。これを神からみれば,それらの属性のどれを抽出したとしても,それが神の外部にあるということはできません。たとえばその属性のうちでどのようなことが生じたとしても,やはり第一部定理一八にあるように神は内在的原因causa immanensとしてその事象に対して働くagereのですから,神には外部がないということは明白でしょう。
では僕たちにとって,僕たちに未知の属性において生じるある事象は,僕たちの外部にあるといえることができるのかといえば,そうではありません。もしも僕たちがその事象を認識することができればそれは僕たちの外部にあるということができないわけではありませんが,それは僕たちには認識することができないからです。だから僕たちが認識することができる世界には外部がないのであって,これは僕たちが認識することができない属性の内部にある事物からみても同じことです。その属性の内部にある事物は,延長の属性を認識することができないのですから,僕たちの世界はその事物にとって外部にあるわけではなく,その事物の世界には外部がないということになるからです。なお,第一部定理二一と第一部定理二二から,どのような属性にも直接無限様態と間接無限様態があると解さなければなりませんから,僕たちが認識しているような世界は,すべての属性のうちにあるでしょう。
最優秀選手賞は大阪の古性優作選手。オールスター,寛仁親王牌,グランプリとビッグを3勝。和歌山記念,松山記念,函館記念,富山記念と記念競輪は4勝。グランプリを勝ってGⅠも2勝ですから当然でしょう。2021年,2023年に続き2年連続3度目のMVP。
優秀選手賞はふたり。まず福井の脇本雄太選手。ウィナーズカップ,競輪祭とビッグは2勝。福井記念,向日町記念と記念競輪は2勝。2018年と2019年に続き優秀選手賞は5年ぶり3度目の受賞。
もうひとりは神奈川の郡司浩平選手。全日本選抜を優勝。川崎記念と小田原記念を制覇。優勝以外の安定した成績でふたり目に滑り込んだ感です。2020年と2021年に続く3度目の優秀選手賞。
優秀新人選手賞は愛知の纐纈洸翔選手。ヤンググランプリを優勝。脚力的にはヤンググランプリ出走選手の中にはもっと上の選手がいましたが,実績を得たことでの受賞でした。
特別関東選手賞は神奈川の北井佑季選手。高松宮記念杯を優勝。北井は選手歴は浅いですが若いわけではないので,これからの数年が本当の勝負どころだと思います。
国際賞とガールズ競輪はこのブログで扱っていないので割愛します。
第一部定理五から内在の哲学が必然的にnecessario帰結することになっているとはいえ,この定理Propositioは僕がいうところの名目的定理であって,複数の実体substantiaが存在することが否定されているわけではありません。実際は第一部定理一四にあるように,実在する実体は神Deusが唯一なのですから,このこと自体に大きな意味がないように感じられるかもしれませんし,このような論理的帰結に何か意味があるようにも思えないかもしれません。なので実在的な意味からも説明を加えておくことにします。
神という実体が唯一の実体として存在しているのですが,この神の本性essentiaは第一部定義六から分かるように,無限に多くの属性infinitis attributisから構成されています。僕たちが認識するcognoscereことができるのは延長の属性Extensionis attributumと思惟の属性Cogitationis attributumですから,僕たちが認識することができない無限に多くの属性があるわけです。これを神からみれば,それらの属性のどれを抽出したとしても,それが神の外部にあるということはできません。たとえばその属性のうちでどのようなことが生じたとしても,やはり第一部定理一八にあるように神は内在的原因causa immanensとしてその事象に対して働くagereのですから,神には外部がないということは明白でしょう。
では僕たちにとって,僕たちに未知の属性において生じるある事象は,僕たちの外部にあるといえることができるのかといえば,そうではありません。もしも僕たちがその事象を認識することができればそれは僕たちの外部にあるということができないわけではありませんが,それは僕たちには認識することができないからです。だから僕たちが認識することができる世界には外部がないのであって,これは僕たちが認識することができない属性の内部にある事物からみても同じことです。その属性の内部にある事物は,延長の属性を認識することができないのですから,僕たちの世界はその事物にとって外部にあるわけではなく,その事物の世界には外部がないということになるからです。なお,第一部定理二一と第一部定理二二から,どのような属性にも直接無限様態と間接無限様態があると解さなければなりませんから,僕たちが認識しているような世界は,すべての属性のうちにあるでしょう。