⑧でいった東京都体育館での一件についての馬場に対する進言について,谷津は次のように説明しています。
このシリーズの終了後に谷津は全日本を退団してSWSに移籍したわけですが,この日の時点でそれはもう決定していました。これは馬場が知っていたかどうかは別であって,谷津にとっては決定していたということです。馬場はもしかしたらそれに感づいていたかもしれませんし,むしろ何も知らず,次のシリーズ以降も谷津は出場し続けると思い込んでいたかもしれません。どちらであるかによって馬場の対応は変わってくる筈なので,この点は重要なのですが,不明なので仕方がありません。
谷津は全日本でお世話になったので,移籍するにあたって置き土産を残したいと考えました。そこで馬場に,天龍源一郎が退団したのでタイガーマスクのマスクを取った方がいいのではないかと進言したそうです。このとき全日本のブッカーはザ・グレート・カブキが務めていました。これは重大な事案,というのはタイガーがマスクを外せばその後の全日本のリング上での出来事が変じてくるので,馬場の一存では決められず,馬場はカブキに相談したそうです。するとカブキがいいのではないかと言ったので,そういう方向に進んだというのが谷津の説明です。
カブキもすぐにSWSに移籍したのですが,この時点ではそれが決まっていて,谷津もそれを知っていたそうです。このことについては馬場はたぶん知らなかったのだろうと推測できます。カブキがブッカーを務めていたということについて谷津がここで噓を言う必要はありませんから,これはたぶん事実だったのでしょう。なのでこの件について,馬場がカブキに相談したというのも事実であったのだろうと僕には思えます。しかしもしもカブキが退団するということを馬場が知っていたとすれば,この時点でカブキにそのような大役を任せるわけがありません。なので谷津の場合とは異なり,カブキについては,SWSに移籍することが決まっているということを馬場は知らなかったと確定してよいのではないでしょうか。
同一の本性essentiaを有するものはそのものが存在するために外部に原因causaを有するわけですが,第一部公理四により原因の認識cognitioは結果effectusの認識を含むのですから,原因さえ正しく認識するcognoscereことができるなら,吉田が示しているような集落に20人の人間が現実的に存在しているという結果も正しく認識されることになるでしょう。したがって,原因,原因の原因,その原因というように無際限に辿っていけば,この結果を正しく認識することができるというのが論理的な帰結になります。そしてその論理的帰結がこの集落が現実的に存在している原因であることになります。
ここでは集落が例として挙げられていますが,これはもっと大きな集団と規定しても同じ論理的帰結となります。したがって,現にこの世界が存在している原因というのも,このように辿っていけば正しく認識することができるという論理的帰結となるのです。いい換えればこのような原因と結果の因果的連結の総体のことが,スピノザがいっているような世界であるということになり,他面からいえばスピノザは世界というものをそのように規定していることになります。ただし,この世界というものも,自己原因causa suiとして存在しているわけではありませんから,問題が解消されることになるわけではないのです。つまり,ある集落に20人の人間が現実的に存在しているかという問いと,世界はなぜ現実的に存在しているのかという問いは,本質的には同一であることになります。ではなぜ世界は存在するのでしょうか。
デカルトRené Descartesはそこで世界の外的存在としての神Deusをもち出してくると吉田はいっています。ただこれはこの部分の講義がデカルトの部分から地続きになっている影響があると僕はみます。むしろ僕たちはこういう場合に神というものをもち出しがちなのであって,それがデカルトに特有のことであるというようには僕は考えないです。ただここでひとつ重要なのは,この神が世界に対しての外的な原因として設定されているという点です。こうした原因は超越的原因causa transiensといわれます。つまり一般にこのような仕方で神を世界の原因としてもち出すときには,神は世界の超越的原因と設定されているのです。
このシリーズの終了後に谷津は全日本を退団してSWSに移籍したわけですが,この日の時点でそれはもう決定していました。これは馬場が知っていたかどうかは別であって,谷津にとっては決定していたということです。馬場はもしかしたらそれに感づいていたかもしれませんし,むしろ何も知らず,次のシリーズ以降も谷津は出場し続けると思い込んでいたかもしれません。どちらであるかによって馬場の対応は変わってくる筈なので,この点は重要なのですが,不明なので仕方がありません。
谷津は全日本でお世話になったので,移籍するにあたって置き土産を残したいと考えました。そこで馬場に,天龍源一郎が退団したのでタイガーマスクのマスクを取った方がいいのではないかと進言したそうです。このとき全日本のブッカーはザ・グレート・カブキが務めていました。これは重大な事案,というのはタイガーがマスクを外せばその後の全日本のリング上での出来事が変じてくるので,馬場の一存では決められず,馬場はカブキに相談したそうです。するとカブキがいいのではないかと言ったので,そういう方向に進んだというのが谷津の説明です。
カブキもすぐにSWSに移籍したのですが,この時点ではそれが決まっていて,谷津もそれを知っていたそうです。このことについては馬場はたぶん知らなかったのだろうと推測できます。カブキがブッカーを務めていたということについて谷津がここで噓を言う必要はありませんから,これはたぶん事実だったのでしょう。なのでこの件について,馬場がカブキに相談したというのも事実であったのだろうと僕には思えます。しかしもしもカブキが退団するということを馬場が知っていたとすれば,この時点でカブキにそのような大役を任せるわけがありません。なので谷津の場合とは異なり,カブキについては,SWSに移籍することが決まっているということを馬場は知らなかったと確定してよいのではないでしょうか。
同一の本性essentiaを有するものはそのものが存在するために外部に原因causaを有するわけですが,第一部公理四により原因の認識cognitioは結果effectusの認識を含むのですから,原因さえ正しく認識するcognoscereことができるなら,吉田が示しているような集落に20人の人間が現実的に存在しているという結果も正しく認識されることになるでしょう。したがって,原因,原因の原因,その原因というように無際限に辿っていけば,この結果を正しく認識することができるというのが論理的な帰結になります。そしてその論理的帰結がこの集落が現実的に存在している原因であることになります。
ここでは集落が例として挙げられていますが,これはもっと大きな集団と規定しても同じ論理的帰結となります。したがって,現にこの世界が存在している原因というのも,このように辿っていけば正しく認識することができるという論理的帰結となるのです。いい換えればこのような原因と結果の因果的連結の総体のことが,スピノザがいっているような世界であるということになり,他面からいえばスピノザは世界というものをそのように規定していることになります。ただし,この世界というものも,自己原因causa suiとして存在しているわけではありませんから,問題が解消されることになるわけではないのです。つまり,ある集落に20人の人間が現実的に存在しているかという問いと,世界はなぜ現実的に存在しているのかという問いは,本質的には同一であることになります。ではなぜ世界は存在するのでしょうか。
デカルトRené Descartesはそこで世界の外的存在としての神Deusをもち出してくると吉田はいっています。ただこれはこの部分の講義がデカルトの部分から地続きになっている影響があると僕はみます。むしろ僕たちはこういう場合に神というものをもち出しがちなのであって,それがデカルトに特有のことであるというようには僕は考えないです。ただここでひとつ重要なのは,この神が世界に対しての外的な原因として設定されているという点です。こうした原因は超越的原因causa transiensといわれます。つまり一般にこのような仕方で神を世界の原因としてもち出すときには,神は世界の超越的原因と設定されているのです。
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