『白痴』は,ムイシュキン公爵がスイスからロシアへ帰るところから始まり,またスイスに戻されるところで終ります。ですからロシアに戻る前のことを,ムイシュキンは他人のことばによって知ることになります。そしてこの間の物語という小説の特性のゆえ,読者もムイシュキンと同じ立場にあります。たとえばナスターシャは自分でトーツキイの妾であったと言っていますが,その妾時代の生活というのがどのようなものであったのかを,ムイシュキンは知っているわけではありません。そしてその時代のことはテクストにありませんから,読者にとっても同様なのです。
それでもロゴージンの殺人のテクストで仄めかされているナスターシャの処女性が,仄めかし以上のものであるとは僕には思えません。しかし彼女に処女性を求めるのであれば,そうした小説の構造といったものに注目しなければならないだろうと思われます。そしてそれを暗示するような場面が,『白痴』にまったくないというわけではないというのも事実です。
第一編の11で,ムイシュキンとガーネチカが対話する場面があります。ここでガーネチカは,ムイシュキンがナスターシャを愛したということを見破っていることを明らかにします。その最後,ガーネチカがこの部屋を出ていく直前に,ナスターシャは身持ちのいい女であると言います。そしてトーツキイとはもうずいぶん前から一緒に暮らしているわけではないと証言するのです。おそらくこのシーンが,仄めかしではなくナスターシャの処女性を示す,最有力の根拠になる部分です。
ナスターシャがトーツキイの妾であったということは,一般的な意味で事実とされていました。しかし妾である女について,身持ちがいいという表現は,そぐわないものといえます。むしろそのことが一般的な事実であったから,ガーネチカはあえてこのように語ったと解するのが妥当であると考えられます。
だからナスターシャは処女であったということにはなりません。ただ,ムイシュキンの帰国以前の出来事は,すべてこのような仕方で明らかにされるという小説の構造が,仄めかしを可能にしているといえます。
スピノザは第一部定理二八を証明する際にも,属性が様態的変状に様態化するという言い回しを用いています。そこでは個物res singularisの存在と作用の原因は,属性が定まった存在を有する様態的変状に様態化したものであるといわれています。
この定理もまた,それ自体でみるならば,res singularisを存在および作用に決定する原因は,そのres singularisとは別のres singularisであって,この関係が無限に連鎖していくということです。しかしこれだけではこの定理を十分に理解したということにはなりません。原因であるres singularisと措定されているものは,res singularisであると同時に,res singularisという様態的変状に様態化した属性であるということが,むしろスピノザが示したかったことであると解し得るからです。だからスピノザはここでも,res singularisに変状した神の属性とはいわずに,res singularisという様態的変状に様態化した神の属性といういい方を用いたと僕は理解します。そのようにいうことで,res singularisは様態としてではなく,属性として知性に把握されるからです。
したがって,この直後の第一部定理二八備考の前半部分も,同じ第一部定理二八備考の後半部分も,僕はスピノザが書いている通りに理解するべきであると考えます。確かにこの後半部分というのは,ゲルーがいっている通り,場合によっては神をres singularisの遠隔原因であるということを,スピノザは認めていると読解できるような文章となっています。しかしそれはあくまでもそのように読解することが可能であるというだけであり,実際にそのように読解することは,誤謬であると僕は思います。スピノザは第一部定理二八を証明するときに,様態的変状に様態化するという言い回しを使うことによって,神あるいは属性が,res singularisの最近原因であって遠隔原因ではないということを示したのだと僕は理解するからです。備考の前半部分でスピノザがいっている通り,res singularisは,神自身によって直接的に産出されたものであるというのが,この定理,証明,そして備考の主旨であると思います。
それでもロゴージンの殺人のテクストで仄めかされているナスターシャの処女性が,仄めかし以上のものであるとは僕には思えません。しかし彼女に処女性を求めるのであれば,そうした小説の構造といったものに注目しなければならないだろうと思われます。そしてそれを暗示するような場面が,『白痴』にまったくないというわけではないというのも事実です。
第一編の11で,ムイシュキンとガーネチカが対話する場面があります。ここでガーネチカは,ムイシュキンがナスターシャを愛したということを見破っていることを明らかにします。その最後,ガーネチカがこの部屋を出ていく直前に,ナスターシャは身持ちのいい女であると言います。そしてトーツキイとはもうずいぶん前から一緒に暮らしているわけではないと証言するのです。おそらくこのシーンが,仄めかしではなくナスターシャの処女性を示す,最有力の根拠になる部分です。
ナスターシャがトーツキイの妾であったということは,一般的な意味で事実とされていました。しかし妾である女について,身持ちがいいという表現は,そぐわないものといえます。むしろそのことが一般的な事実であったから,ガーネチカはあえてこのように語ったと解するのが妥当であると考えられます。
だからナスターシャは処女であったということにはなりません。ただ,ムイシュキンの帰国以前の出来事は,すべてこのような仕方で明らかにされるという小説の構造が,仄めかしを可能にしているといえます。
スピノザは第一部定理二八を証明する際にも,属性が様態的変状に様態化するという言い回しを用いています。そこでは個物res singularisの存在と作用の原因は,属性が定まった存在を有する様態的変状に様態化したものであるといわれています。
この定理もまた,それ自体でみるならば,res singularisを存在および作用に決定する原因は,そのres singularisとは別のres singularisであって,この関係が無限に連鎖していくということです。しかしこれだけではこの定理を十分に理解したということにはなりません。原因であるres singularisと措定されているものは,res singularisであると同時に,res singularisという様態的変状に様態化した属性であるということが,むしろスピノザが示したかったことであると解し得るからです。だからスピノザはここでも,res singularisに変状した神の属性とはいわずに,res singularisという様態的変状に様態化した神の属性といういい方を用いたと僕は理解します。そのようにいうことで,res singularisは様態としてではなく,属性として知性に把握されるからです。
したがって,この直後の第一部定理二八備考の前半部分も,同じ第一部定理二八備考の後半部分も,僕はスピノザが書いている通りに理解するべきであると考えます。確かにこの後半部分というのは,ゲルーがいっている通り,場合によっては神をres singularisの遠隔原因であるということを,スピノザは認めていると読解できるような文章となっています。しかしそれはあくまでもそのように読解することが可能であるというだけであり,実際にそのように読解することは,誤謬であると僕は思います。スピノザは第一部定理二八を証明するときに,様態的変状に様態化するという言い回しを使うことによって,神あるいは属性が,res singularisの最近原因であって遠隔原因ではないということを示したのだと僕は理解するからです。備考の前半部分でスピノザがいっている通り,res singularisは,神自身によって直接的に産出されたものであるというのが,この定理,証明,そして備考の主旨であると思います。
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