スピノザの『エチカ』と趣味のブログ

スピノザの『エチカ』について僕が考えていることと,趣味である将棋・競馬・競輪などについて綴るブログです。

確知する&本性と形相

2023-01-18 18:55:09 | 哲学
 第四部序言の中でスピノザが本性の型と善悪の関係について言及しているとき,僕たちが人間の本性の型に近づく手段と確知するcerto scimusとか,人間の本性の型に近づくことの妨げになると確知するといっている部分の,確知するということが何を意味するのかということは考えておかなければなりません。
                                   
 まず一般的に,僕が確知するという用語をこのブログの中で使用するときに,どのような思惟作用のことを意味させているのかということを説明します。
 AがXであると確知するという言明があったとします。僕がこのようにいうとき,AがXを十全に認識するcognoscereということはその意味の中に入ります。というのは,第二部定理四三により,Xを十全に認識したAは,Xの観念ideaが十全な観念idea adaequataであるということを知り,かつそれが十全な観念であるということを疑い得ないからです。この事象がAの精神mensのうちに生じるとき,AはXを確知するという言明に合致するのは間違いないと僕は考えるからです。ただしこれはこのことが確知するということに含まれるということであって,確知するということとイコールではありません。僕が確知するということにもたせる意味は,さらに広くわたります。
 第二部定理四三で十全な観念についていわれていることが確知するという思惟作用に一致するのは,Xを十全に認識したAが,Xが十全な観念であることを疑い得ないとされているからです。よって,たとえばAがXの混乱した観念idea inadaequataを有しているときに,それがXの十全な観念であると疑わないのであれば,AはXが十全adaequatumであると確知しているといえないこともありません。第二部定理四三は絶対的な意味をもつ,つまり単に疑わないのではなく疑い得ないということを示しているのですが,Xについて疑わないということは,Xの観念が十全な観念であろうと混乱した観念であろうとAの精神のうちには生じ得ます。なので基本的にこの場合も,AがXについて十全であると確知すると僕はいいます。
 したがって,僕はAがXを確知するというとき,AがXを十全に認識するということを前提しているわけではありません。この点に注意しておいてください。

 現実的に存在するある人間の精神mens humanaのうちに十全な観念idea adaequataがあるとしても,その十全な観念は神Deusのうちにあるとみられなければならないということは,スピノザの哲学を大きく特徴づける,主体subjectumの排除という思想と関連します。十全な観念が神のうちにあるとみられなければならないのであれば,その十全な観念がどの人間の精神のうちにあるのかはとくに考慮しなくてもよいことになるからです。実際に,たとえばXという人間が現実的に存在しているとして,このXの精神のうちにある十全な観念の本性essentiaも形相formaも神のうちにある十全な観念の本性および形相と同一であるというとき,Xというのは現実的に存在するどの人間であっても構わないので,十全な観念について考察する場合には,Xがだれであるのかということを特定する必要はありません。他面からいえば,現実的に存在するどの人間の精神のうちにあろうとも,十全な観念の本性および形相は同一であると解さなければならないのです。
 したがってこの十全な観念は,神が存在する限りは同一の本性また同一の形相のまま存在することになるでしょう。しかるに神というのは第一部定義六によって実体substantiamですから,第一部定理七によってその本性には存在existentiaが含まれます。いい換えれば第一部定義一により神は自己原因causam suiです。したがって神の本性が与えられれば神の存在も与えられるのであり,よって神の存在は永遠aeterunusです。いい換えれば持続duratioのうちに存在する個物res singularis,たとえば現実的に存在する人間にはその存在に開始と終焉があるのに対し,神の存在には開始もなければ終焉もありません。むしろ神は永遠から永遠にわたって存在することになります。よって何らかの十全な観念が神のうちにあるとみられる限りでは,その十全な観念もまた永遠から永遠にわたって存在するといわれるべきであって,その存在に開始も終焉もないといわれなければなりません。なのでたとえ現実的に存在するある人間の精神のうちに何らかの十全な観念があるのだとしても,その十全な観念自体は永遠から永遠にわたって存在する観念あるいは同じことですが客観的有esse objectivumとみなし得るのです。つまりこの十全な観念は存在をやめることはありません。

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