昨日はNOAHの日本武道館大会。前回の武道館大会で師弟対決を制して新王者となった三沢光晴選手の初防衛戦が行われました。挑戦者は森嶋猛選手。彼は一時、膝の故障でブランクがありました。体重が膝への負担になるのですが、逆にその休養の間に身体を大きくしたという変り種。いまや体格はテリー・ゴディと化しています。プロレスの方は小細工せずにその大きな体型を前面に出すスタイルで、こちらの方はゴディと比較していえばむしろスティーヴ・ウイリアムスを彷彿とさせます。事前に短時間で勝負を決めたいと宣言していたようで、試合開始直後から猛然とラッシュ。ただ、それを一旦受け止められてしまってからは、攻撃を繰り出してもほとんど単発で終ってしまい、僕の印象ではありますがあまりいいところなく最後もランニングエルボーに沈められてしまいました。丸藤選手と同期の森嶋選手は、このタイトルへの挑戦は2度目ですが、前回は横浜文化体育館での試合。武道館ではおそらくメーンに出場するのもこれが初めてであったと思いますが、どうもその部分で緊張感があり、身体を思うように動かせなかったのではないでしょうか。勝った三沢選手の方は、開始直後のラッシュで場外でパワーボムを受けた際に脳震盪を起こしていたようで、試合後、救急車で病院に運ばれたとのことですが、幸いにして大事には至らなかったようです。
今回のテーマで重要なのは神と個々の様態との関係なのです。まず、第一部定理一五によれば、無限に多く実在する様態のどれひとつをとってみても、それは神のうちにあり、神がなくては考えられることができません。そしてそれはなぜかといえば、第一部公理四と第一部定理一六から、様態が結果として自然のうちに発生する原因が神である、しかも、それはたとえば原因の原因といったように遠隔的に操作するような原因ではなくて、直接的な原因であるからです。つまり、無限に多くある様態のどれひとつをとってみても、それは神(もちろん神がどのようにあり、またどのように考えられるかという点で差異はありますが)から直接的に産出されるのです。したがって、ここで再び公理四に訴えれば、個々の様態の観念(真の観念)というのはすべて、神の認識に依存するわけで、つまりそれはその様態の原因としての神の観念を含んでいなければならないのです。これが神と様態との関係のうち、様態の側から考えたときに、神というものがどういったものでなければならないか、あるいはどういったものとして考えられなければならないかということの大前提になります。
今回のテーマで重要なのは神と個々の様態との関係なのです。まず、第一部定理一五によれば、無限に多く実在する様態のどれひとつをとってみても、それは神のうちにあり、神がなくては考えられることができません。そしてそれはなぜかといえば、第一部公理四と第一部定理一六から、様態が結果として自然のうちに発生する原因が神である、しかも、それはたとえば原因の原因といったように遠隔的に操作するような原因ではなくて、直接的な原因であるからです。つまり、無限に多くある様態のどれひとつをとってみても、それは神(もちろん神がどのようにあり、またどのように考えられるかという点で差異はありますが)から直接的に産出されるのです。したがって、ここで再び公理四に訴えれば、個々の様態の観念(真の観念)というのはすべて、神の認識に依存するわけで、つまりそれはその様態の原因としての神の観念を含んでいなければならないのです。これが神と様態との関係のうち、様態の側から考えたときに、神というものがどういったものでなければならないか、あるいはどういったものとして考えられなければならないかということの大前提になります。
※コメント投稿者のブログIDはブログ作成者のみに通知されます