11日に有楽町朝日ホールで指された第18回朝日杯将棋オープンの決勝。近藤誠也八段と井田明宏五段は公式戦初対局。
振駒で井田五段の先手となり雁木。後手の近藤八段の矢倉という戦型に。中盤は互角の戦いが続きました。
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/14/89/1678f03e1a3b79fa2a4687fbecf5443f.png)
ここで先手は☗5八銀と引きました。これは☖4六銀と打たれたら☗6七玉と逃げようという意図だったと思われますがすかさず☖7六歩と打たれ,一気に苦戦となってしまいました。
☖4六銀を牽制するのであれば☗5八玉と引いて後手玉方面に角を利かす方がよかったですし,この局面は☗7四角から攻め合っても相当にいい勝負であったようです。
近藤八段が勝って優勝。デビューから9年4か月で棋戦初優勝となりました。
このように考察を進めてくると,このことは以前に検討した,スピノザの哲学における神の観念idea Deiの位置づけということと関連してくるように思われます。
スピノザはシュラーGeorg Hermann Schullerに宛てた書簡六十四において,思惟の属性Cogitationis attributumの直接無限様態は絶対に無限な知性intellectus,延長の属性Extensionis attributumの直接無限様態は運動motusと静止quiesで,延長の属性の間接無限様態は全宇宙の姿facies totius Universiであるといっています。これは書簡六十三で,チルンハウスEhrenfried Walther von Tschirnhausがシュラーを介して尋ねた質問への解答です。チルンハウスはそこで,両属性の直接無限様態と間接無限様態は何であるかと質問しているのですが,なぜかスピノザは思惟の属性の間接無限様態については解答していません。それがなぜなのかということを,河合徳治は『スピノザ哲学論攷』の中で検討しています。
河合によれば,思惟の属性の間接無限様態は神の観念なのです。ただしそれは,神のうちにある神の観念なのであって,それを人間は認識するcognoscereことができません。なのでスピノザはそれが何であるかを示すことができなかったのです。
第一部定理二三によれば,間接無限様態は永遠aeternumかつ無限infinitumでなければなりません。神のうちにある神の観念は確かにこの要件を満たしているといえます。なので現在は僕も河合説に傾いているのですが,このことは今は考慮しないで構いません。それが思惟の属性の間接無限様態であるか否かということを別としても,河合は神のうちには神の観念があって,しかしそれは人間には認識することができない観念であるとみているのは間違いないのであって,この点では基本的に僕と同じ考え方を有しているということになるでしょう。つまり第一部定義六を余すところなく表現するexprimere十全な観念idea adaequataというのが存在するのであり,しかしそれを人間は認識することができないということは,僕に特有の考え方であるわけではないということになります。
同じような見方は,岩波文庫版の訳者である畠中尚志も有していると僕は考えています。スピノザは第一部定理二一を証明する中で,ひとつの例として思惟の中に神の観念が生じるという仮定を出しています。そのとき,畠中はこの神の観念の部分に注目するべき訳注を付しているのです。
振駒で井田五段の先手となり雁木。後手の近藤八段の矢倉という戦型に。中盤は互角の戦いが続きました。
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ここで先手は☗5八銀と引きました。これは☖4六銀と打たれたら☗6七玉と逃げようという意図だったと思われますがすかさず☖7六歩と打たれ,一気に苦戦となってしまいました。
☖4六銀を牽制するのであれば☗5八玉と引いて後手玉方面に角を利かす方がよかったですし,この局面は☗7四角から攻め合っても相当にいい勝負であったようです。
近藤八段が勝って優勝。デビューから9年4か月で棋戦初優勝となりました。
このように考察を進めてくると,このことは以前に検討した,スピノザの哲学における神の観念idea Deiの位置づけということと関連してくるように思われます。
スピノザはシュラーGeorg Hermann Schullerに宛てた書簡六十四において,思惟の属性Cogitationis attributumの直接無限様態は絶対に無限な知性intellectus,延長の属性Extensionis attributumの直接無限様態は運動motusと静止quiesで,延長の属性の間接無限様態は全宇宙の姿facies totius Universiであるといっています。これは書簡六十三で,チルンハウスEhrenfried Walther von Tschirnhausがシュラーを介して尋ねた質問への解答です。チルンハウスはそこで,両属性の直接無限様態と間接無限様態は何であるかと質問しているのですが,なぜかスピノザは思惟の属性の間接無限様態については解答していません。それがなぜなのかということを,河合徳治は『スピノザ哲学論攷』の中で検討しています。
河合によれば,思惟の属性の間接無限様態は神の観念なのです。ただしそれは,神のうちにある神の観念なのであって,それを人間は認識するcognoscereことができません。なのでスピノザはそれが何であるかを示すことができなかったのです。
第一部定理二三によれば,間接無限様態は永遠aeternumかつ無限infinitumでなければなりません。神のうちにある神の観念は確かにこの要件を満たしているといえます。なので現在は僕も河合説に傾いているのですが,このことは今は考慮しないで構いません。それが思惟の属性の間接無限様態であるか否かということを別としても,河合は神のうちには神の観念があって,しかしそれは人間には認識することができない観念であるとみているのは間違いないのであって,この点では基本的に僕と同じ考え方を有しているということになるでしょう。つまり第一部定義六を余すところなく表現するexprimere十全な観念idea adaequataというのが存在するのであり,しかしそれを人間は認識することができないということは,僕に特有の考え方であるわけではないということになります。
同じような見方は,岩波文庫版の訳者である畠中尚志も有していると僕は考えています。スピノザは第一部定理二一を証明する中で,ひとつの例として思惟の中に神の観念が生じるという仮定を出しています。そのとき,畠中はこの神の観念の部分に注目するべき訳注を付しているのです。
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