玉野記念の決勝。並びは取鳥‐岩津‐柏野の岡山,犬伏‐清水‐松浦の四国中国で吉田と南と山田は単騎。
取鳥がスタートを取って前受け。4番手に山田,5番手に犬伏,8番手に南,最後尾に吉田で周回。残り2周のホームを出てから犬伏が上昇。バックの入口では取鳥を叩き,このラインに続いた南と吉田を挟んで6番手に取鳥となって打鐘。すぐに取鳥が発進。先行争いとなってホームで取鳥が叩きました。取鳥は柏野の位置に入り3番手。バックから再発進。これを岩津がブロックしましたが,ホームの入口では取鳥を捲りました。ただ後方で脚を溜めていた吉田がさらに外から捲ってきて,直線で取鳥を差して優勝。吉田をマークするように追い込んできた山田が1車輪差で2着。犬伏は4分の3車身差で3着。
優勝した茨城の吉田拓矢選手は昨年6月の取手記念以来の優勝で記念競輪7勝目。玉野記念は初優勝。このレースは中四国勢が6人決勝に進出したため,別々のラインを構成。残りの3人が単騎ということもあったでしょうが,ライン同士で猛烈な先行争いとなりました。こうなれば展開は自力がある単騎の選手が有利。南はマーク選手ですから吉田と山田の争いとなったわけですが,道中の位置が吉田の方が前になった分,吉田が優勝で山田が2着という結果に落ち着きました。
この部分の吉田の講義はここで終了なので,感情の模倣affectum imitatioが人間以外にも成立するということに関連する事項の僕自身の考察をして,『スピノザ 人間の自由の哲学』に関連する探究は終了となるのですが,その前に,吉田のこの部分の講義の最後の部分に関して,僕の方から補足しておきたいことがあります。

吉田がいっているように,戦争による飢餓に苦しんでいる人の映像を目にすれば,たとえ国際情勢に関しては何らの関心をもっていない人でも,多かれ少なかれその苦しみの感情を模倣するように僕たちの現実的本性actualis essentiaはできています。したがって,その人を苦しませるように仕向けた専制者が存在するのだとすれば,その専制者は模倣された自身の苦しみの原因causaとして意識されることになるので,その専制者に対しては第三部諸感情の定義七の憎しみodiumという感情を抱くことになります。僕は多かれ少なかれその苦しみを模倣するといいましたが,その感情の模倣が多ければその憎しみは大きくなり,少なければ小さくなるでしょうから,その専制者がどの程度の度合で憎まれることになるかということは人それぞれといわなければなりませんが,たとえ小さくても憎しみは憎しみですから,僕たちがだれかの悲しみtristitiaを模倣すれば,その悲しみの原因として認識されるものに対して憎しみを抱くということが,僕たちの現実的本性であるということは,一般的な事実であるといって間違いありません。
僕は人によってはこのような現実的本性はよいことであると思う人がいるのではないかと思います。吉田はこうした感情の模倣が共同社会状態status civilisにおける人間の紐帯を強くするという意味のことをいっているのでなおさらです。しかし,吉田自身が付け加えているように,これはほかの条件が揃う限りでそうであるというだけなのであって,一般的にそれがよいことであるというわけではありません。むしろスピノザの哲学においては,もしも悲しみという感情の模倣が憎しみという感情を産出するのであれば,それはよいことであるどころかむしろ悪しきことであるといわなければなりません。第四部定理四五に示されるように,それがどのようなものでも憎しみは悪malumだからです。
取鳥がスタートを取って前受け。4番手に山田,5番手に犬伏,8番手に南,最後尾に吉田で周回。残り2周のホームを出てから犬伏が上昇。バックの入口では取鳥を叩き,このラインに続いた南と吉田を挟んで6番手に取鳥となって打鐘。すぐに取鳥が発進。先行争いとなってホームで取鳥が叩きました。取鳥は柏野の位置に入り3番手。バックから再発進。これを岩津がブロックしましたが,ホームの入口では取鳥を捲りました。ただ後方で脚を溜めていた吉田がさらに外から捲ってきて,直線で取鳥を差して優勝。吉田をマークするように追い込んできた山田が1車輪差で2着。犬伏は4分の3車身差で3着。
優勝した茨城の吉田拓矢選手は昨年6月の取手記念以来の優勝で記念競輪7勝目。玉野記念は初優勝。このレースは中四国勢が6人決勝に進出したため,別々のラインを構成。残りの3人が単騎ということもあったでしょうが,ライン同士で猛烈な先行争いとなりました。こうなれば展開は自力がある単騎の選手が有利。南はマーク選手ですから吉田と山田の争いとなったわけですが,道中の位置が吉田の方が前になった分,吉田が優勝で山田が2着という結果に落ち着きました。
この部分の吉田の講義はここで終了なので,感情の模倣affectum imitatioが人間以外にも成立するということに関連する事項の僕自身の考察をして,『スピノザ 人間の自由の哲学』に関連する探究は終了となるのですが,その前に,吉田のこの部分の講義の最後の部分に関して,僕の方から補足しておきたいことがあります。

吉田がいっているように,戦争による飢餓に苦しんでいる人の映像を目にすれば,たとえ国際情勢に関しては何らの関心をもっていない人でも,多かれ少なかれその苦しみの感情を模倣するように僕たちの現実的本性actualis essentiaはできています。したがって,その人を苦しませるように仕向けた専制者が存在するのだとすれば,その専制者は模倣された自身の苦しみの原因causaとして意識されることになるので,その専制者に対しては第三部諸感情の定義七の憎しみodiumという感情を抱くことになります。僕は多かれ少なかれその苦しみを模倣するといいましたが,その感情の模倣が多ければその憎しみは大きくなり,少なければ小さくなるでしょうから,その専制者がどの程度の度合で憎まれることになるかということは人それぞれといわなければなりませんが,たとえ小さくても憎しみは憎しみですから,僕たちがだれかの悲しみtristitiaを模倣すれば,その悲しみの原因として認識されるものに対して憎しみを抱くということが,僕たちの現実的本性であるということは,一般的な事実であるといって間違いありません。
僕は人によってはこのような現実的本性はよいことであると思う人がいるのではないかと思います。吉田はこうした感情の模倣が共同社会状態status civilisにおける人間の紐帯を強くするという意味のことをいっているのでなおさらです。しかし,吉田自身が付け加えているように,これはほかの条件が揃う限りでそうであるというだけなのであって,一般的にそれがよいことであるというわけではありません。むしろスピノザの哲学においては,もしも悲しみという感情の模倣が憎しみという感情を産出するのであれば,それはよいことであるどころかむしろ悪しきことであるといわなければなりません。第四部定理四五に示されるように,それがどのようなものでも憎しみは悪malumだからです。
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