静岡記念の決勝。並びは新山に浅井,真杉‐坂井の栃木,深谷‐岩本の南関東,嘉永‐荒井の九州で河端は単騎。
深谷がスタートを取って前受け。3番手に真杉,5番手に嘉永,7番手に新山,最後尾に河端で周回。残り3周のバックを出たコーナーから新山が上昇を開始すると,嘉永が合わせるように出ていきました。ホームで深谷を叩いたのは嘉永。バックに戻ってから新山がさらに嘉永を叩いて打鐘。後方になった真杉がすぐさま発進。新山との先行争いになるとみたか坂井は真杉に続かず下りて浅井の後ろに。先行争いは真杉が制し,浅井はスイッチせずに新山を迎え入れたので真杉の後ろが新山に。坂井がバックから再び追い上げていきましたが,その外から深谷が捲り一閃。直線に入るところでは前を捲り切って先頭に立ち優勝。マークの岩本が半車身差の2着に続いて南関東のワンツー。新山が上昇するときに続かず,後ろに控えて深谷の捲りに乗る形になった河端が1車身半差で3着。
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優勝した静岡の深谷知広選手は10月の熊本記念以来の優勝で記念競輪22勝目。静岡記念は初優勝。このレースはだれが先行するのかを予想するのも難しいメンバー構成で,展開次第でだれにでもチャンスがありそうなレースだと思っていました。新山の先行は最も考えられる展開だったのですが,真杉が早い段階で発進したので先行争いになり,後方で足を溜めた深谷が有利になりました。河端もこのラインを追っていたと考えればラインでの上位独占ですから,前にいた選手に厳しいレースだったということがよく分かると思います。
第一部定義六により,神Deumは絶対に無限absolute infinitumです。神が絶対に無限であるためには,ある属性attributisは備えていても別の属性は備えていないというわけにはいきません。そうではなく,無限に多くのinfinitis属性を備えていなければならないのです。第一部定義六の前半部分と後半部分は,こうした条件によって接続されていることになります。
とはいえ現実的に存在する人間が認識するcognoscereことができる属性は思惟cogitatuonesと延長Extensioのふたつなので,第一部定理二五系はこの観点から記述されていると解しておくのがよいでしょう。もちろんこの系Corollariumは,僕たちにとって未知の属性の個物Res particularesに対しても妥当するのは間違いないと僕は考えますが,僕たちが延長と思惟のふたつの属性しか認識することができない以上,僕たちが認識できる個物は延長の属性Extensionis attributumの個物である物体corpusか,思惟の属性Cogitationis attributumの個物である物体の観念ideaのどちらかであることになるからです。よって再びこの系に注目すれば,物体は延長の属性によってみられる神を一定の仕方で表現するexprimuntur様態modiであることになりますし,物体の観念は,思惟の属性によってみられる神を一定の仕方で表現する様態であるということになります。
この文脈で重要なのは,表現という点にあると吉田は指摘しています。ただしここでは注意が必要で,日本語で表現というと,することもできるししないこともできるのにときに強制されるものとか,してもよいししなくてもよいのだけれどもときに強制されることといったニュアンスを帯びるかもしれません。たとえば美術の授業で絵画によって風景を表現せよといわれるなら,確かにそれは強制されているといえますし,しかしそのこと自体が授業でないならば,することもできるししないこともできることであり,してもいいししなくてもいいことであるといえるでしょう。
しかしスピノザの哲学でいわれる表現というのはそういうことを意味するのではなくて,もっと切実なことです。吉田のいい方を借りれば,のっぴきならないものなのです。絵画の表現でたとえれば,それは描くという形で表現せずにはいられないようなことなのであり,描くということに固執するperseverareようなことなのです。つまり画家にとっての絵画なのです。
深谷がスタートを取って前受け。3番手に真杉,5番手に嘉永,7番手に新山,最後尾に河端で周回。残り3周のバックを出たコーナーから新山が上昇を開始すると,嘉永が合わせるように出ていきました。ホームで深谷を叩いたのは嘉永。バックに戻ってから新山がさらに嘉永を叩いて打鐘。後方になった真杉がすぐさま発進。新山との先行争いになるとみたか坂井は真杉に続かず下りて浅井の後ろに。先行争いは真杉が制し,浅井はスイッチせずに新山を迎え入れたので真杉の後ろが新山に。坂井がバックから再び追い上げていきましたが,その外から深谷が捲り一閃。直線に入るところでは前を捲り切って先頭に立ち優勝。マークの岩本が半車身差の2着に続いて南関東のワンツー。新山が上昇するときに続かず,後ろに控えて深谷の捲りに乗る形になった河端が1車身半差で3着。
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優勝した静岡の深谷知広選手は10月の熊本記念以来の優勝で記念競輪22勝目。静岡記念は初優勝。このレースはだれが先行するのかを予想するのも難しいメンバー構成で,展開次第でだれにでもチャンスがありそうなレースだと思っていました。新山の先行は最も考えられる展開だったのですが,真杉が早い段階で発進したので先行争いになり,後方で足を溜めた深谷が有利になりました。河端もこのラインを追っていたと考えればラインでの上位独占ですから,前にいた選手に厳しいレースだったということがよく分かると思います。
第一部定義六により,神Deumは絶対に無限absolute infinitumです。神が絶対に無限であるためには,ある属性attributisは備えていても別の属性は備えていないというわけにはいきません。そうではなく,無限に多くのinfinitis属性を備えていなければならないのです。第一部定義六の前半部分と後半部分は,こうした条件によって接続されていることになります。
とはいえ現実的に存在する人間が認識するcognoscereことができる属性は思惟cogitatuonesと延長Extensioのふたつなので,第一部定理二五系はこの観点から記述されていると解しておくのがよいでしょう。もちろんこの系Corollariumは,僕たちにとって未知の属性の個物Res particularesに対しても妥当するのは間違いないと僕は考えますが,僕たちが延長と思惟のふたつの属性しか認識することができない以上,僕たちが認識できる個物は延長の属性Extensionis attributumの個物である物体corpusか,思惟の属性Cogitationis attributumの個物である物体の観念ideaのどちらかであることになるからです。よって再びこの系に注目すれば,物体は延長の属性によってみられる神を一定の仕方で表現するexprimuntur様態modiであることになりますし,物体の観念は,思惟の属性によってみられる神を一定の仕方で表現する様態であるということになります。
この文脈で重要なのは,表現という点にあると吉田は指摘しています。ただしここでは注意が必要で,日本語で表現というと,することもできるししないこともできるのにときに強制されるものとか,してもよいししなくてもよいのだけれどもときに強制されることといったニュアンスを帯びるかもしれません。たとえば美術の授業で絵画によって風景を表現せよといわれるなら,確かにそれは強制されているといえますし,しかしそのこと自体が授業でないならば,することもできるししないこともできることであり,してもいいししなくてもいいことであるといえるでしょう。
しかしスピノザの哲学でいわれる表現というのはそういうことを意味するのではなくて,もっと切実なことです。吉田のいい方を借りれば,のっぴきならないものなのです。絵画の表現でたとえれば,それは描くという形で表現せずにはいられないようなことなのであり,描くということに固執するperseverareようなことなのです。つまり画家にとっての絵画なのです。
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