4日に鶴巻温泉で指された第72期王座戦五番勝負第一局。対戦成績は藤井聡太王座が15勝,永瀬拓矢九段が7勝。千日手が二局あります。
振駒で永瀬九段の先手となり角換わり。後手の藤井王座が☖3三金型を選択。後手の早繰銀に対して先手が腰掛銀から銀矢倉に。先手が歩を損する代償に馬を作り,後手も角を打ったので,角換わりというより先手の矢倉に後手の雁木という戦型に近い戦いとなりました。
ここは手が広そうな局面。2筋の突破を目指すなら香車を打つところですが,打ち場所が2六,2七,2八と三箇所ある上,☗3五歩,☗5三歩,☗6五歩などもありそう。実戦は☗2八香と打ったのですが,どうも残り時間の関係で,その後の指し方を分かりやすくするという意図があったようです。
☖3一桂などと受けてくれれば先手が有望なのですが,後手は反撃に転じました。☖7六歩☗同銀☖7七歩☗同金☖7五歩☗6五銀☖5六銀☗同金☖7六桂というのがその手順。
これでどう応じても先手は自玉よりも早く後手玉を寄せる手段がなく,後手の勝勢となっていました。結果的に☗2八香が甘かったということになるのですが,第2図以下も一直線に攻めあって後手の勝ちというわけでもないので,後手の強さが光り輝いたという印象の一局でした。
藤井王座の先勝。第二局は18日に指される予定です。
フッデJohann Huddeは自身とスピノザの間に親密な交際があったことが世間に発覚することを危惧していました。アムステルダム市長がスピノザと親密な交際があったということは,一種のスキャンダルになりかねないからです。だから遺稿集Opera Posthumaの編集者と直接的なコンタクトを取り,そういうことが知られないようにする配慮を求めたのではないかと僕は思います。これは逆にいえば,遺稿集が発行されること自体は,フッデは許容していたということでしょう。
おそらくそうしたコンタクトの中で,フッデは自身がスピノザに送った書簡を自分の手元に返却することを求めたのではないでしょうか。編集者たちはその要求に応じ,実際にそれをフッデに渡したのだと思います。だからスピノザがフッデに送った書簡は遺稿集に掲載されましたが,フッデからスピノザに宛てられた書簡は掲載することができなかったのだと推測されます。スピノザがフッデに送った書簡の内容は,フッデの質問に解答するという性質のものですから,本来であればフッデからスピノザに宛てられたものも掲載された方が,内容は分かりやすくなった筈です。
スピノザからフッデに宛てた書簡が掲載されたのは,フッデがそれについては許容したか,そうでなければスピノザが出した書簡はフッデ自身の手許にあるわけですから,それと同じものを編集者たちが所有しているということに思い至らなかったからであるかもしれません。いい換えればスピノザが同じものを2通書いて,1通をフッデに送り,もう1通を自身で所持していたとは思わなかったからかもしれません。もしフッデにそのような習慣がなかったとすれば,その習慣をスピノザにも当て嵌めるということは大いにあり得ますから,この可能性もあるといわなければないでしょう。なお,フッデとスピノザとの書簡はオランダ語で交わされていたようですが,スピノザはそれをラテン語に翻訳し,したがって遺稿集に掲載されたのはスピノザが翻訳したラテン語文であったようです。
どういった経緯があったにせよ,書簡三十四,書簡三十五,書簡三十六は遺稿集に掲載されることになりました。ただし掲載にあたっても配慮はなされたのです。
振駒で永瀬九段の先手となり角換わり。後手の藤井王座が☖3三金型を選択。後手の早繰銀に対して先手が腰掛銀から銀矢倉に。先手が歩を損する代償に馬を作り,後手も角を打ったので,角換わりというより先手の矢倉に後手の雁木という戦型に近い戦いとなりました。
ここは手が広そうな局面。2筋の突破を目指すなら香車を打つところですが,打ち場所が2六,2七,2八と三箇所ある上,☗3五歩,☗5三歩,☗6五歩などもありそう。実戦は☗2八香と打ったのですが,どうも残り時間の関係で,その後の指し方を分かりやすくするという意図があったようです。
☖3一桂などと受けてくれれば先手が有望なのですが,後手は反撃に転じました。☖7六歩☗同銀☖7七歩☗同金☖7五歩☗6五銀☖5六銀☗同金☖7六桂というのがその手順。
これでどう応じても先手は自玉よりも早く後手玉を寄せる手段がなく,後手の勝勢となっていました。結果的に☗2八香が甘かったということになるのですが,第2図以下も一直線に攻めあって後手の勝ちというわけでもないので,後手の強さが光り輝いたという印象の一局でした。
藤井王座の先勝。第二局は18日に指される予定です。
フッデJohann Huddeは自身とスピノザの間に親密な交際があったことが世間に発覚することを危惧していました。アムステルダム市長がスピノザと親密な交際があったということは,一種のスキャンダルになりかねないからです。だから遺稿集Opera Posthumaの編集者と直接的なコンタクトを取り,そういうことが知られないようにする配慮を求めたのではないかと僕は思います。これは逆にいえば,遺稿集が発行されること自体は,フッデは許容していたということでしょう。
おそらくそうしたコンタクトの中で,フッデは自身がスピノザに送った書簡を自分の手元に返却することを求めたのではないでしょうか。編集者たちはその要求に応じ,実際にそれをフッデに渡したのだと思います。だからスピノザがフッデに送った書簡は遺稿集に掲載されましたが,フッデからスピノザに宛てられた書簡は掲載することができなかったのだと推測されます。スピノザがフッデに送った書簡の内容は,フッデの質問に解答するという性質のものですから,本来であればフッデからスピノザに宛てられたものも掲載された方が,内容は分かりやすくなった筈です。
スピノザからフッデに宛てた書簡が掲載されたのは,フッデがそれについては許容したか,そうでなければスピノザが出した書簡はフッデ自身の手許にあるわけですから,それと同じものを編集者たちが所有しているということに思い至らなかったからであるかもしれません。いい換えればスピノザが同じものを2通書いて,1通をフッデに送り,もう1通を自身で所持していたとは思わなかったからかもしれません。もしフッデにそのような習慣がなかったとすれば,その習慣をスピノザにも当て嵌めるということは大いにあり得ますから,この可能性もあるといわなければないでしょう。なお,フッデとスピノザとの書簡はオランダ語で交わされていたようですが,スピノザはそれをラテン語に翻訳し,したがって遺稿集に掲載されたのはスピノザが翻訳したラテン語文であったようです。
どういった経緯があったにせよ,書簡三十四,書簡三十五,書簡三十六は遺稿集に掲載されることになりました。ただし掲載にあたっても配慮はなされたのです。
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